佐竹義隣
佐竹 義隣(さたけ よしちか)は、江戸時代前期から中期にかけての佐竹氏一門の佐竹北家8代当主。佐竹北家角館初代所預。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 元和5年6月11日(1619年7月21日)[1] |
死没 | 元禄15年10月27日(1702年12月15日)[2] |
改名 | 重丸(幼名)→義親→義隣 |
別名 | 河内、主計(通称) |
戒名 | 泰雲院殿仁山覚公 |
主君 | 佐竹義宣→義隆→義処 |
藩 | 出羽国久保田藩角館所領 |
氏族 | 高倉家→佐竹北家 |
父母 | 父:高倉永慶、母:佐竹義重娘 |
兄弟 | 高倉永敦、義隣、義寛、一柳直家正室、中院通純室 |
妻 | 正室:佐竹義直娘 |
子 | 義明、多賀谷隆経室、戸村義般室、義秀 |
略歴
編集佐竹北家は、先代当主義直が宗家の世嗣となったため、元和7年(1621年)に一度絶えたが、義隣の母が佐竹義宣の妹であったため、寛永5年(1628年)に北家を相続して再興させた。明暦2年(1656年)には、断絶した蘆名氏に代わり角館所預(城代)となり、3,600石を領した。故郷を懐かしんで、京に似た地形の角館の山河に「小倉山」、「加茂川」などと命名した。