佐藤 為徳(さとう ためのり、1894年明治27年)1月1日[1] - 1946年昭和21年)4月6日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。

佐藤 為徳
ポートブレアでの降伏文書の調印式に臨む日本軍代表団。佐藤は右から2人目
生誕 1894年1月1日
日本の旗 日本 徳島県
死没 (1946-04-06) 1946年4月6日(52歳没)
シンガポール
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1914年 - 1945年
最終階級 陸軍少将
テンプレートを表示

経歴 編集

1894年(明治27年)に徳島県で生まれた[1]陸軍士官学校第26期卒業[1]1938年(昭和13年)7月15日陸軍歩兵大佐進級と同時に歩兵第73連隊長(第19師団)に着任[2]。同年7月29日張鼓峰事件が勃発すると出動し、ソ連軍と交戦した[3]1940年(昭和15年)3月に関東軍高級副官に転じ[4]1941年(昭和16年)3月に第53師団司令部附となり[4]京都帝国大学に配属された[4]

1943年(昭和18年)3月1日に陸軍少将進級と同時に第15歩兵団長(緬甸方面軍第15軍第15師団)に就任し[1][4]、ビルマ方面に出征[1]インパール作戦発動直前の1944年(昭和19年)2月14日に独立混成第37旅団長(南方軍第7方面軍第29軍)に転じ[1]ニコバル諸島ナンコウリ島英語版で守備に任じた[5]1945年(昭和20年)5月31日に独立混成第35旅団長に転じ[1]ポートブレアで守備に就き、終戦を迎えた[1]

終戦後戦犯として逮捕され[5]シンガポールに収監された[5]。独立混成第35旅団長在任時の1945年(昭和20年)7月に船を盗み、逃亡を企てた現地住民34人を逮捕したところ[5][6]、旅団参謀の独断により殺害した事件で裁判にかけられた[6]。佐藤はこの件について関知していなかったとされるが[6]、裁判で部下を庇う態度は英軍からも「騎士道的態度」と称賛されたが[6]、絞首刑の判決が下り[6]1946年(昭和21年)4月6日に執行された[1][4][6]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j 福川 2001, 351頁.
  2. ^ 伊藤 2021, 345頁.
  3. ^ 伊藤 2021, 348頁.
  4. ^ a b c d e 外山 1981, 359頁.
  5. ^ a b c d 伊藤 2021, 350頁.
  6. ^ a b c d e f 伊藤 2021, 351頁.

参考文献 編集

  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026 
  • 伊藤禎 著『大東亜戦争 戦犯として処刑された陸軍将官36人列伝』展望社、2021年。ISBN 4885464056