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光吉 勉(みつよし つとむ、1928年5月21日 - 2018年2月)は、アメリカハワイ準州Territory of Hawaii)出身の元プロ野球選手[1]。日系二世。ポジションは投手

光吉 勉
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ハワイ準州
生年月日 (1928-05-21) 1928年5月21日
没年月日 2018年2月
身長
体重
179 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1953年
初出場 1953年6月21日
最終出場 1954年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

目次

来歴・人物編集

ハンフォード高校を経てハワイ大学在学中の1953年途中、広島カープが集めた募金の400万円で同じ日系二世の銭村健三銭村健四と共に来日し入団。

この頃広島は経営が深刻な状態であり、主力選手に対しても月給が支払えない状態だったため、1000万円を募金で集め、光吉や銭村兄弟、さらに前年に解散した松竹ロビンスの主力選手だった小鶴誠金山次郎三村勲の3人を入団させようというだった。この行為が他球団のファンから批判をされたものの、なんとか1953年途中に入団にこぎつけ、入団パレードは平和大通りに10万人が集まった。

当初は強力サウスポーとして期待された。しかし後に本業が大工と判明し、野球は遊びでやっていたものだったとされるが、光吉は"日系人野球の父"健一郎が、健次を通じて東洋工業(現・マツダ)の松田恒次に「ワシが育てた光吉勉といういい投手がおる」と推薦したものであり、遊びでやっていたわけではないと思われる[2]。日本に馴染めなかったものと思われるが、「ベン(光吉)はワシに恥をかかせた」と健一郎は道で光吉に会っても口をきかなかったという[2]。三兄弟が初めて揃った戦後の日本に野球の虫健一郎が遂に行かなかったのは、自分が太鼓判を押した光吉がさっぱり活躍せず、「広島のファンに申し訳ないという気持ちがあったからである[2]。 

結局1年半の在籍で6試合の登板にとどまり、1954年末に引退した。

引退後はハワイに帰国した。

2018年2月、89歳で死去した[3]


詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1953 広島 4 2 0 0 0 0 2 -- -- .000 26 4.2 6 0 7 -- 2 1 1 1 5 4 7.20 2.79
1954 2 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 23 4.1 6 0 2 -- 0 0 0 0 5 2 3.60 1.85
通算:2年 6 3 0 0 0 0 3 -- -- .000 49 9.0 12 0 9 -- 2 1 1 1 10 6 6.00 2.33

背番号編集

  • 11(1953年 - 1954年)

記録編集

  • 初登板:1953年6月21日、
  • 初先発:1953年9月16日、対巨人戦(高松

脚注編集

  1. ^ わたしはかもめ Data館(光吉勉のページ)
  2. ^ a b c 池井優『ハロー、マニエル、元気かい プロ野球外人選手列伝②』創隆社、1985年、p260-263
  3. ^ 中国新聞 2018年12月15日「銭村健三氏訃報」

関連項目編集