全日本6人制バレーボール総合選手権

全日本6人制バレーボール総合選手権(ぜんにほん6にんせいバレーボール そうごうせんしゅけん)は、1958年から1979年まで毎年開催されていた6人制バレーボール選手権大会である。正式名称は、男子が全日本6人制バレーボール総合男子選手権、女子が全日本6人制バレーボール総合女子選手権。通称は全日本総合。単に「天皇杯」「皇后杯」の表記も見られる[1]

全日本6人制バレーボール総合選手権大会
開始年 1958
終了年 1979
主催 日本バレーボール協会
加盟国 日本の旗 日本
最多優勝 男子:日本鋼管(7回)
女子:ニチボー貝塚/ユニチカ(11回)
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概要 編集

全日本9人制バレーボール総合選手権は1927年に始まり、6人制の本大会は1958年から始まった由緒ある大会である。実業団やクラブ、教員、学生といった異種カテゴリーチームが覇を競う文字通りの全日本選手権大会であった。主催は日本バレーボール協会。開催時期は毎年おおむね11月。

1958年11月に第1回目の大会が開催されたが、9人制総合選手権大会と同一会場、同一日程で、参加チームも9人制選手権と掛け持ちという中で開催された。全国レベルの大会で6人制大会が開催されたのは、本大会が初めてと言っても過言でなく、6人制バレー普及の場としての側面が大きかった[2]

東京オリンピックにおいてバレーボール競技が正式種目となり、1962年からは9人制大会に代わり男子優勝チームに天皇杯、女子優勝チームに皇后杯が下賜される大会となった。

1970年の大会よりこれまでの大会形式を改め、予選に相当する「優勝大会」と決勝に相当する「選手権大会」の2本立てとした。これはチーム力量に大きな差があり、できるだけ均等な力量のチーム同士の試合を行わせたいと協会が長年検討してきた結果である[3]

1979年に日本バレーボール協会は本大会の廃止を決定した。廃止理由として、本大会の存在意義が薄れたことを挙げている。開催時期が日本リーグ開幕の直前にあたり、リーグ参加チームにとっては調整大会になってしまったこと、またかつて中央大学が5連覇した実績があるが、近年は学生チームの実力低下が著しいことなども大きい。

本大会廃止に伴い、選手権大会の名は全日本都市対抗バレーボール優勝大会(全日本都市対抗バレーボール選手権大会に改称)に譲り、下賜大会は日本リーグに移行。異種カテゴリー大会は1984年に都市対抗で大学生参加という形で復活した。さらに2007年度には本大会と類似の大会形式で、天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会がスタートしている。

歴代優勝/準優勝チーム 編集

No. 年度 男子 女子
優勝 準優勝 優勝 準優勝
1 昭和33年(1958年) 八幡製鉄 早稲田大学 日紡貝塚 倉紡津
2 昭和34年(1959年) 日本鋼管 倉紡倉敷
3 昭和35年(1960年) 日本鋼管 八幡製鉄
4 昭和36年(1961年) 東レ九鱗会 日本鋼管 ヤシカ本社
5 昭和37年(1962年) 東レ九鱗会 八幡製鉄 全ヤシカ
6 昭和38年(1963年) 中央大学 日本鋼管 倉紡倉敷
7 昭和39年(1964年) 松下電器 富士フイルム ニチボー貝塚
8 昭和40年(1965年) 中央大学 松下電器 日立武蔵
9 昭和41年(1966年) 八幡製鉄 ヤシカ
10 昭和42年(1967年) 専売広島 日立武蔵
11 昭和43年(1968年) 松下電器 ニチボー貝塚
12 昭和44年(1969年) 日本鋼管 ヤシカ 日立武蔵
13 昭和45年(1970年) 日本鋼管 松下電器 ユニチカ貝塚 ヤシカ
14 昭和46年(1971年) 日立武蔵 ユニチカ貝塚
15 昭和47年(1972年) ヤシカ
16 昭和48年(1973年) 新日鉄堺 日本鋼管 日立武蔵 鐘紡
17 昭和49年(1974年) 日本鋼管 専売広島 ヤシカ
18 昭和50年(1975年) 新日鐵 富士フイルム 日立 ユニチカ貝塚
19 昭和51年(1976年) 日本鋼管 久光製薬
20 昭和52年(1977年) 日本鋼管 新日鐵 ユニチカ
21 昭和53年(1978年) ユニチカ 日立
22 昭和54年(1979年) 新日鐵 日本鋼管 日立 カネボウ

脚注 編集

  1. ^ 月刊バレーボール誌にて
  2. ^ VOLLEYBALL(日本バレーボール協会機関誌) 1959年1月号 18ページ
  3. ^ VOLLEYBALL(日本バレーボール協会機関誌) 1971年1月号 22-23ページ

参考文献 編集

  • VOLLEYBALL(日本バレーボール協会機関誌) 1968年2月号 66ページ
  • VOLLEYBALL(日本バレーボール協会機関誌) 1968年3月号 66ページ
  • 月刊バレーボール 1980年2月号 91ページ

関連項目 編集