六角 氏郷(ろっかく うじさと)は、江戸時代前期の武士六角氏嫡流の六角義郷の嫡男。母は織田秀信の娘。別名に兵部。印は「江源明流」。

 
六角氏郷
時代 江戸時代前期
生誕 元和7年(1621年
死没 元禄6年(1693年
改名 龍武丸(幼名)→氏郷
別名 兵部、通称:四郎
官位 中務大輔従四位下左衛門督
氏族 佐々木氏六角氏
父母 父:六角義郷、母:織田秀信
兄弟 義周(右馬)?、義行(六郎左衛門)、氏郷
有馬重雅
養子:庭田重条京極高豊男子
義尋[1]
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その経歴の信憑性は疑問視され、通説では沢田源内と同一人物とされる。ただし「氏郷」実在を推定できる文書や系図類が存在するとして、源内とは別人で六角氏嫡流の人物とする説も出ている。

生涯編集

以下は伝承などによる経歴で六角氏郷実在説に基づく。

元和7年(1621年)、六角義郷の長男として生まれる。家臣を従え武士として京に暮らしていた。

教養深く言うべきことを言う性質で、相国寺住持愚渓等厚汝舟妙恕とも交流があり、寛文3年(1663年)9月晦日には愚渓と夢窓国師の降誕年代について論じ、当時信じられていた説の誤りを正したという。また佐々木六角氏の正統として佐々木氏本家系図「金泥の巻き」を所持、四位の位階を持ち、後水尾天皇から院昇殿を許されていたともされる[2]

京極氏家臣某覚書抜萃』によると、浪人でありながら四位以上の者にしか許されない白小袖を着用していたため、天和年間に京都所司代稲葉正則[3]の取調べを受けたことがあるが、家伝の永補任御免許について言及、実物も持参し堂々と返答して事なきを得たという。稲葉はこの件について、丸亀藩京極高豊に書状を送って照会し、「六角兵部という者なら知っている」との回答を得ている。また氏郷に実子がなかったことから六角家に代々伝わる家宝七品を高豊に贈り、高豊の子を迎えて後継者としたという。 京極高豊とはこの一件以降親交が深く、氏郷は京極家から合力銀を受けていたとされる。なお氏郷は京極からの養子縁組前にも養子を迎えていたといい、同じ宇多源氏堂上家である庭田家から庭田雅純の子・重条がそれである。ただし重条は実兄・雅秀が病弱のため庭田家を継ぐため養子を解消したという。その後も筑前黒田家や津和野亀井家に家宝を譲渡し後継者を得ようとしたが、成功していない。 その高豊の子を養子とした3年後に氏郷が丸亀を訪れた折には、彼を京極家一門として3000石を給し、丸亀に迎えようとの話が出たといもいわれる。

『葉隠聞略』においては、鍋島直茂が氏郷を六角氏の正統として認識していた発言が記載される。

佐々木哲は、これらの資料から、当時の人々に氏郷が六角氏正嫡として認められていたと主張している。

元禄6年(1693年)、死去。享年73。沙沙貴神社所蔵佐々木系図に官位が記載されている。なお佐々木は、氏郷と同一人物とされる沢田源内に対し、沙沙貴神社所蔵佐々木系図において万治3年(1660年)に没した沢田郷重のことで、六角氏郷とは別人としている。この没年に従うと、氏郷と源内は別人となる。

子孫編集

なお、六角義郷の子孫と称する六角敦周1727年~?)(おそらく孫と思われる)は1768年明和5年)に滝口武者に任じられ、佐渡守にまで昇進、滝口六角家として幕末まで存続した(『地下家伝』)。敦周の子・敦義(生没年不詳)は『御遷幸供奉色目抄』を著し、学者としても名を成した。また、娘婿である医師有馬重雅の子孫に医師六角重任がおり、天明年間『古方便覧』『疾医新話』などの著作を残している。 また、田中政三は、『近江源氏』第二巻で、夭折した氏郷の後継として、摂関家近衛氏の嫡男を養子として迎え、名を義尋(よしひろ)と改め、佐々木を継承しているとしている[4]

脚注編集

  1. ^ 『近江源氏』第二巻 田中政三著 弘文堂 p.1~2
  2. ^ 夢窓国師俗譜』、『葉隠聞略』、沙沙貴神社所蔵佐々木系図
  3. ^ ただし正則は所司代に就任しておらず、当時の所司代は正則の子・稲葉正往であり記述に矛盾がある。
  4. ^ しかしこの時点から、佐々木六角氏は、武家から公卿殿上人に変わり、ついに近江を去って、宮廷に仕えた、そして官職は内大臣準大将に任じられ、武家伝奏役として江戸時代を通じて代々継承した。その末裔が、佐々木哲であるとしている。

外部リンク編集