加藤保太郎

大日本帝国陸軍の軍人

加藤 保太郎(かとう やすたろう、明治19年(1886年)9月11日 - 昭和43年(1968年)8月19日)は大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

滋賀県犬上郡豊郷村四十九院の農家、加藤甚弥・ふさの次男に生まれ、苦学して彦根中学卒業後、陸軍軍人となる。陸士同期に石原莞爾飯村穣、陸大同期に井出宣時町尻量基後宮淳牟田口廉也らがいる。「先入主に陥らぬこと」を旨とし、一貫して英米との協調路線を説いた。

略歴

編集
  • 1909年(明治42年)7月 - 陸軍士官学校卒業(21期)
  • 1909年(明治42年)12月 - 陸軍歩兵少尉・歩兵第53連隊
  • 1913年(大正2年)2月 - 陸軍歩兵中尉
  • 1913年(大正2年)12月 - 奈良連隊区司令部付
  • 1914年(大正3年)12月 - 陸軍大学校入学
  • 1917年(大正6年)12月 - 陸軍大学校卒業(29期)
  • 1918年(大正7年)9月 - 第一鉄道線区司令部部員、釜山、奉天、長春に出張
  • 1919年(大正8年)4月 - 歩兵第53連隊中隊長職務心得
  • 1919年(大正8年)7月 - 陸軍歩兵大尉
  • 1919年(大正8年)9月 - 野戦交通部部員
  • 1919年(大正8年)11月 - ウスリー支部付(ウラジオストク)
  • 1920年(大正9年)7月 - 歩兵第52連隊
  • 1921年(大正10年)3月 - 陸軍士官学校本科教官
  • 1923年(大正12年)8月 - 澎湖島要塞参謀
  • 1924年(大正13年)12月 - 兼馬公要港部参謀
  • 1925年(大正14年)3月 - 陸軍歩兵少佐
  • 1927年(昭和2年)3月 - 歩兵第12連隊大隊長(丸亀)
  • 1929年(昭和3年)3月16日 - 陸軍歩兵中佐 同日 近衛歩兵第3連隊付成城高等学校服務
  • 1932年(昭和7年)8月8日 - 歩兵第20連隊付(福知山)
  • 1934年(昭和9年)3月5日 - 陸軍歩兵大佐 同日 第12師団司令部付九州帝国大学服務
  • 1936年(昭和11年)3月7日 - 山口連隊区司令官
  • 1938年(昭和13年)3月1日 - 陸軍少将・待命
  • 1938年(昭和13年)3月25日 - 予備役
  • 1947年(昭和22年)11月28日 - 公職追放仮指定[1]

栄典

編集
位階
勲章等

脚注

編集
  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
  2. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  3. ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
  4. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  5. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
  6. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。