北条 時長(ほうじょう ときなが)は、鎌倉時代中期の武将北条氏の一門。名越流北条朝時の三男。母は大友能直の娘。

 
北条時長
時代 鎌倉時代中期
生誕 不詳
死没 建長4年8月26日1252年10月8日
別名 名越時長、遠江三郎
官位 備前守
幕府 鎌倉幕府
主君 藤原頼経頼嗣宗尊親王
氏族 北条氏 名越流
父母 父:北条朝時、母:大友能直の娘
兄弟 光時時章時長時幸時兼教時時基、他
三浦義村の娘
長頼定長政雄、女子
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通称は遠江三郎といい、父朝時が遠江守であったことに由来する通称であった。仁治寛元年間(1240年 - 1246年)備前守の任にあり、この期間、史料では備前守、備前前司と呼ばれていた。

生涯編集

暦仁元年(1238年)、将軍藤原頼経が上洛する際、供奉人として随行。同年蔵人頭に補任され、さらに右衛門権少尉、左衛門尉と昇進した。父朝時は幕政から疎外されており、それに対する反撥から将軍頼経に近侍、随従して結びつきを深めていた。時長も父や兄北条光時らと同調して将軍に接近し、外出時の随兵や御剣役を担当した。朝時が寛元2年(1244年)に没すると、時長は兄弟らと共に信濃善光寺で供養を行っている。

この供養は表向きで、裏では将軍頼経と結託して名越一族が得宗打倒を画策しており、時長もその一翼を担っていたとされる。その為、将軍が更迭された宮騒動に連座して備前守の官途を解かれた。時長の兄光時と時幸はこの事件でそれぞれ処分されたが、時長は兄弟の時章時兼らと共に時頼に陳弁して許された。

その後の時長は得宗との協調路線を重視する方針を採り、幕府内である程度の地位を回復させることに成功した。建長4年(1252年)8月26日死去。

参考文献編集

  • 北条氏研究会「北条氏系譜人名辞典」