千葉自胤

室町時代中期から戦国時代前期の武将

千葉 自胤(ちば よりたね/これたね[1])は、室町時代中期から戦国時代前期の武将武蔵千葉氏第3代当主(室町幕府からは千葉氏当主と認められた)。

 
千葉 自胤
時代 室町時代中期 - 戦国時代前期
生誕 文安3年(1446年
死没 明応2年12月6日1494年1月13日
別名 次郎(通称)
戒名 松月院殿
墓所 東京都板橋区赤塚松月院
幕府 室町幕府
主君 足利義政義尚義材
氏族 武蔵千葉氏
父母 父:千葉胤賢
兄弟 実胤自胤
養子:守胤(盛胤)
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生涯 編集

享徳の乱古河公方足利成氏に与した重臣原胤房と同族の馬加康胤に伯父の胤直、従兄の胤宣、父の胤賢ら一族を殺され、兄の実胤と共に下総八幡荘市河城へと逃れた。室町幕府8代将軍足利義政が派遣した同族の奉公衆東常縁の支援を得たが、成氏が派遣した簗田持助に敗れ、康正2年(1456年1月19日に市河城も陥落、武蔵へと逃れた。同年、常縁が馬加康胤・胤持父子を討ち取り、原胤房も逃亡した。

一方、兄実胤は石浜城(現在の台東区橋場)主、自胤は赤塚城(現在の板橋区赤塚)主となり、康正3年(1457年)4月には外戚である扇谷上杉家家宰太田道灌江戸城を築城するなど古河公方側に圧力をかけ続けたが、自胤らは確たる所領を持たないため経済的に逼迫し、下総への帰還も思うに任せない状態であった。

その後兄が隠遁したため自胤が石浜城主となり幕府から認められた千葉氏当主となった。だが実際には、下総において分家の印東庄岩橋村(現在の酒々井町岩橋)の領主岩橋輔胤らが本佐倉城を築城するなど反抗を続け、その子孝胤は千葉氏当主を自称し、幕府と対立していた成氏も孝胤に頼らざるを得なかったためこれを認め、自胤の下総帰還も叶わなかった。東常縁も文明元年(1469年)4月に応仁の乱斎藤妙椿美濃の所領を横領されたため、息子の縁数を下総に残して帰京、軍事力も低下した。

文明10年(1478年)1月、山内上杉家・扇谷上杉家と成氏が和解したが、長尾景春と組んだ孝胤は和睦に反対、成氏の合意もあり12月に太田道灌の支援を背景にして孝胤追討に立ち上がり、12月10日には境根原合戦に勝利し、孝胤らが軍勢をまとめて退却し籠城した臼井城(現在の佐倉市臼井田)を文明11年(1479年)7月15日に落城させ、下総・上総の大半を制圧した。だが、この20年の間に輔胤・孝胤による千葉領支配体制は既に完成しており、同地に支持勢力を有さなかった自胤は上杉氏の内紛に巻き込まれていく中で撤退を余儀なくされ、結果的には孝胤の子孫による下総千葉氏継承が確定される事となった。自胤の子孫は武蔵に定着、小規模な勢力しか持たない国人に転落していった。

創作作品における自胤 編集

脚注 編集

  1. ^ 黒田元樹編『戦国武将列伝2 関東編(上)』(戎光祥出版、2022年12月。ISBN 978-4-86403-441-8

外部リンク 編集