古田 重名(ふるた しげな、天保10年5月10日1839年6月20日) - 大正2年(1913年2月11日)は、江戸時代末期の武士明治時代茶人豊後岡藩士。号宗関

天保10年(1839年)5月10日に岡藩士・田近長裕の四男として生まれる。初名は長行、後に幸吉。その後、古田本家・古田重剛の養子となり、名を重名と改める。妻は田近長吉の娘[1]

嘉永7年(1854年)7月より、藩主中川久昭御小姓となる[1]。その後、内記、小膳、勘解由、小膳と次々に通称を変更。明治3年(1870年)1月に義父・重剛の隠居により家督相続、家禄400石。翌年の廃藩置県によって新藩知事中川久成が失職し上京したので、重名も翌5年(1872年)に上京。東京で古田織部の子孫を称し織部流茶の湯を教えるも学ぶ者が少なく、伝来の茶道具を売却して生計をたてる。

小堀宗舟のほか土居光華と交流を持ち、明治7年(1874年)には『土居光華編 近世女大学』の跋文を書いている。明治31年(1898年)に「茶道温知会」を創設し、衰退する茶道の普及を志した。門下には娘・素春(咲)のほか、岡崎淵冲(惟素)、原宗改(鉄石)などがいる。門下の素春(咲)が「茶道温知会」を引き継いだが、大正6年(1917)に没したため「茶道温知会」は消滅した。しかし、100年後の平成29年(2017)に、宮下玄覇により織部流を実践する目的のもと復会し、これが現在の織部流温知会となる。大正2年(1913年)2月11日に75歳で没し染井霊園に葬られた。

脚注 編集

  1. ^ a b 「豊後古田家譜」

参考文献 編集

  • 末宗廣編『茶人系譜』河原書店、1977年
  • 宮下玄覇「古田宗関」宮帯出版社、2012年