織部流温知会
古田織部流(温知会)(ふるたおりべりゅう おんちかい)は、武将茶人・古田織部に始まる武家茶道・織部流の一つ。
古田織部は、師の千利休没後、茶の湯を25年にわたって発展させた。将軍・大名・公家・僧侶・豪商などの茶法を制定し、また現在の茶事の形式も確立させている。織部流では、織部好みの竹筒のような茶入、ゆがんだ沓茶碗などを使用するが、その点前は茶会記のほか茶書「宗湛日記」「織部百ヶ条」「茶道長問織答抄」「古織伝」「数寄道次第」「草人木」「古田織部正殿聞書」「茶譜」などに詳しく記され、その一部は遠州流・藪内流・上田宗箇流・宗和流・南坊流(土屋宗俊系で福岡藩に伝わる)にも受け継がれている。
古田織部の茶の湯を伝えた弟子には、土屋宗俊(織部流)、小堀遠州(遠州流)、佐久間将監(宗可流)、上田宗箇(上田宗箇流)、金森宗和(宗和流)、安楽庵策伝(安楽庵流)、本阿弥光悦などがいた。また諸藩には織部流の茶堂(頭)が数多くいた。江戸時代中期に古田淵黙(中川広計)という豊後岡藩老職がおり、これは織部の女婿・古田重続(中川秀政の老職)の子孫であった。淵黙は、初め江戸千家の茶を学んでいたが、天明8年(1788年)に家臣・古田正友(代助)を派遣し、福岡藩の織部流を伝えた槙宗空(玄蕃)より茶法を学ばせ自らがそれを修得、織部流「十一世」を称した。淵黙は、長府藩の同流の茶堂・飯田淵恕(茂的)からも茶法を授けられた。淵黙の茶法は曾孫の古田宗関(重名)にいたるまで伝えられた。宗関は、明治の初めに大分(豊後)から東京へ移り、織部流を一般に教授し、明治31年に「茶道温知会」を設立した。門下には娘の古田素春(咲)、三菱商会の岡崎淵冲(惟素)、原宗改(鉄石)などがいた。素春は、宗関が亡くなってから4年後に没し、孫の辰雄もその2年後の大正8年(1919年)に没したため直系は断絶、温知会は消滅した。高弟の淵冲は、松浦心月庵・安田松翁・石黒况翁ら在京の華族・知名士等16名からなる輪番茶事グループ「和敬会」(後に益田鈍翁・高橋箒庵らが参加)の会員で、諸流の茶道の点前を研究し、『点茶活法』という大著があり、弟子に織部流を教授した。平成時代になって岡﨑淵冲の所作を基にし、桃山時代から江戸時代前期の茶書に記されている古田織部在世期の所作・手順の復元をした古田織部流(温知会)が古田織部美術館館長で点前研究家である宮下玄覇によって発足、100年ぶりに「温知会」が復会された。
また、機関紙『金甫』(古田織部が春屋宗園より授けられた道号)の編集・発行を行う。
関連団体に古田織部美術館、古田織部顕彰会、古田織部流茶湯研究会がある。
古田織部流(温知会)の本部は京都鷹峯の太閤山荘で、その敷地内に小堀遠州作で日本一窓が多い後藤覚乗の茶室「擁翠亭」(十三窓席)がある。稽古場は、京都のほか東京、大阪、兵庫、名古屋にある。
歴史 編集
流祖は古田重然(玄庵印斎金甫宗屋)である。織部流茶道は、豊臣秀吉・秀頼の伏見城・大坂城、徳川家康・秀忠の江戸城・駿府城などで行われたもので、格調高い武家茶道である。織部の死後も将軍秀忠や大名・公家衆・豪商・職人たちから愛好され、全国各地に伝えらた。織部の門下には、遠州流の祖である小堀遠州や上田宗箇流の祖である上田宗箇らがおり、両者とも現在に至るまで武家茶道の代表的存在として知られている。
江戸時代初期、福岡藩には織部門下の土屋宗俊が茶道(頭)として出仕しており、その後、石原宗林-槙艮山(重賢)-百野湖月-百野宗湖-槙宗空(直村)と続いた。江戸時代中期、織部流茶道を継承していた福岡藩の大番頭・槙宗空が、豊後岡藩にいた古田織部血縁の古田淵黙から派遣された古田(中川)正友に茶法を伝授し淵黙に伝えられ、その子孫織部流11世古田宗関(重名)は、明治初めに大分県から東京へ移り、織部流を教授し、岡崎淵冲(惟素)らに伝えた。古田宗関は、明治31年(1898年)に「茶道温知会」を創設し、衰退する茶道の普及を志すも、同会を引き継いだ娘で岡崎淵冲(惟素)の姉弟子の古田素春(咲)が、大正6年(1917)に没したため同会は消滅した。その100年後の平成29年(2017年)に、宮下玄覇により織部流を実践する目的のもと復会し、現在の古田織部流温知会となる。また古田織部四百年遠忌にあたる平成26年(2014年)には、古田織部美術館の設立に伴い、宮下玄覇により創設された織部流の研究・普及を目的とする団体である古田織部流茶湯研究会、古田織部顕彰会が発足した。
点前の特徴 編集
点前は、豊後岡藩士・古田家より岡崎淵冲に伝わった織部流の所作を基にし、桃山時代から江戸時代前期の茶書に記されている古田織部在世期の所作・手順の復元をしたものである。
当時「ヘウケモノ」と言われた織部茶碗、力強い伊賀焼や備前焼の花入・水指類、織部焼の会席具等を用いる。点前については、薄茶は(真行草のうち)「草」(『草人木』に「利休 答ていはく、(中略)薄茶ハ草也」)になるため、道具や手前は簡略になる。また、お茶を点(た)てる時は(山盛り)一杓しか掬わず(『古織伝』に「(茶碗)大小にかまはず、薄茶ハ 一すくひか」、『古田織部正殿聞書』に「薄茶 多一杓入、立ルもの也。若、茶 少ク掛リ候ハゝ、二杓 三杓も すくひ 入事有共、是ハ必悪シ、」とある)、左手の添手をせず(『古田織部正殿聞書』に「左之手 茶碗に添て不可立、片手ニて振立ル也」)、片手で横振りする(『古田織部正殿聞書』に「手のかう右へなし、指先 左へ不成様ニ持て、横へ斗ふりて立候也」とある)という桃山時代の古い形式である。
宮下玄覇による古田織部の茶書研究と、織部の茶の湯を引き継ぐ武家茶道諸流派の見聞とで培われた知見に基づくものとなっている。そのため現在では失われた当時の点前や約束事などが取り入れられ、武家茶道の本流である織部流の当時の形を再現したとされる。その特徴を列記する。
- 清潔で衛生的な点前 濃茶の飲みまわしの時、客の人数に応じて三方、四方それぞれの箇所から飲む。濃茶は他流よりも濃く粘り気も強いため、前の客の唾液が混ざりあうことは少ない。また、畳にふれた手のひらで点前をするのを避けるため、点前の際の礼は指先だけを畳に触れる指建礼(しけんれい)で行う。さらに、茶巾で茶碗の縁を拭くのは、表面ではなく裏面。茶道に限らず、日本の芸道の基本動作になっている摺り足は、ほこりを立てないようにする配慮と考える。
- 武家茶道らしく見栄えを重視 織部好みの道具は激しい歪(ゆが)みや箆目(へらめ)、強烈な絵付けなど、視覚的なインパクトがある。窓の多い茶室は開放感とともに、道具をはっきりと見せようとする意図が感じられる。点前に関しても外見的な見栄えを意識した所作がある。茶入の拝見の時、牙蓋(げぶた)に「窠(す)」(虫喰いのような細いくぼみ)がある場合は、あえて客に向けるようにするのはその表れである。逆に「表裏(ひょうり)さばき」という帛紗(ふくさ)の所作では、茶が付く面は裏側に向けて腰につけ、目に触れないようにする。また、風炉の時期(5月~10月ごろ)には、広間でも炉縁が木地(それ以外は塗)となる。木地にするのは、窓からほこりが吹き込んでも目立たない、という配慮と考えられる。
- 所作は一回で完結 呈茶のあと茶杓に付いた茶を帛紗で拭うが、それをはたくのは一回のみで行う。薄茶入(棗・中次など)から抹茶を茶杓ですくう所作も一回、濃茶を点てる時の湯も基本一回で注ぐ。やり直しをせず所作を一回で行うのは、武家茶道であることに由来する。一回でやりきる、ある種の緊張感を伴う点前と言える。
- 音を立て、音の変化を楽しむ 炭が大きくて火力が強く、湯が沸き立つ音が大きくなる。また、柄杓(ひしゃく)で湯・水を汲む時や引き上げる時は、わざと音を立てる。水指の水を釜にさす中水(なかみず)も数回あり、竹や金物の音など、静寂のなかにいろいろな音が楽しめます。他流ではあえて音を立てないようにする所作が多い中、特徴のひとつになっている。
- 畳を濡らさないよう配慮 柄杓の扱いに水気を切る(飛ばす)所作があり、意外なことに畳に湯・水が落ちることが少ないのは、畳にポタっと垂れにくくする「表面張力」(液体の表面が収縮する力)を織部は知っていたと考えられる。また、畳に水滴を落とさないための「折茶筅(おれぢゃせん)」という所作もあり、土物の水指を使用した際、畳まで染み出した水は最後に拭きとって点前を終了する。
- 道具組や点前の「真」「行」「草」が明確に分かれている 薄茶は「草」である、と織部の師・利休より伝わっているため茶を点てる時、丁寧になりすぎないように、茶碗への左手の添え手はしない。ただし、それでは全体のバランスが悪くなるとの流祖・織部の配慮で、茶巾や柄杓の扱いは「草」の濃茶より上の「行」となっており、丁寧になる。織部流系の他流では、濃茶・薄茶の点前と茶巾・柄杓の扱いが混同され、両方とも「行」または両方とも「草」になってしまっている。
- おいしいお茶を点てることを第一義とする 薄茶を点てる際、お茶本来の風味を損なわないようにするため無理して泡立てることはしない。分量も他流と比べてやや少なめ。盛夏において、熱すぎてなかなか飲めない事態を避けるため、お湯を入れた後に水を足してちょうど良い湯加減にする。一方、濃茶は素早く濃くて熱いお茶を点てる。
- 織部が定めた寸法の道具で実践 流祖・織部が定めた寸法の道具、道具組で400年前の茶湯を実践。道具のサイズは総体的に大きめ。なお、流祖・織部の道具組は独特な美意識に基づくもので、茶会では同じ焼き物を重ねて用いるという特徴がある。
主な茶会主催と掛釜 編集
- 2004年5月20日 (織部流)「岡﨑淵冲百年忌追善茶会」(宮帯、宮下玄覇主催・掛釜)
- 2012年8月25日 (織部門下)「浅野幸長公四百年遠忌追善茶会」(高台寺、宮下玄覇主催)
- 2012年10月19日、20日 (織部流)「古田宗関百年忌追善茶会」(畠山記念館・明月軒、聚美茶会、宮下玄覇主催・掛釜)
- 2014年6月11日 「古田織部四百年遠忌追善(大)茶会」(大徳寺黄梅院・芳春院・総見院・瑞雲軒、宮下玄覇主催、林屋晴三・筒井紘一・木下收・鈴木皓詞らと掛釜)
- 2015年2月28日、3月1日 「京都「千年の心得」織部流武家点前特別茶会」(太閤山荘、京都市観光協会、宮下玄覇掛釜)
- 2016年6月18日、19日 「古田織部旧領~私達のお殿様 古田織部の茶道~」茶会(京都府木津川市加茂文化センター、木津川市民茶会、宮下玄覇掛釜)
- 2017年4月1日、2日 「古田織部旧領 木津川市織部茶会」(「お茶の京都博」木津川市ブース、宮下玄覇掛釜)
- 2017年5月20日 「和敬会※十六羅漢追懐茶会」(護国寺、宮下玄覇主催・鎮信流と掛釜) ※岡﨑淵冲がメンバー
- 2017年6月11日 「古田織部追善茶会」(大徳寺玉林院、宮下玄覇主催・掛釜)
- 2017年9月10日 (織部門下)「永井尚政(信斎)公三百五十年遠忌追善茶会」(宇治・興聖寺、宮下玄覇主催)
- 2017年11月3日 「へうげもの茶宴 in みかのはら」茶会(京都府「お茶の京都博」、木津川市、宮下玄覇掛釜)
- 2018年9月15日 織部茶会(長野県下伊那郡松川町・片桐宿問屋大澤家住宅、片桐宿保存会、宮下玄覇主催・掛釜)
- 2018年10月13日、14日 「織部茶の湯再現」茶会(大分県「第33回 国民文化祭」、大分県竹田市・竹田創生館、宮下玄覇掛釜)
- 2019年1月20日 「織部流初釜」茶会(京都御苑・拾翠亭、宮下玄覇主催・掛釜)
- 2020年3月1日 「作夢会」茶会(東福寺退耕庵、宮﨑庸庵掛釜)
- 2021年10月29、30日 「岡藩 織部流茶会」(竹田創生館、宮下玄覇掛釜)
- 2022年10月8日 (織部門下)策伝忌供茶・副席(京都・誓願寺、宮下玄覇掛釜)
- 2022年10月22日 (利休・織部門下)「黒田長政四百年遠忌茶会」(京都・報恩寺、宮下玄覇主催・筒井紘一と掛釜)
流儀に関する刊行物 編集
- 2012年 (小冊子)『古田織部十四世宗関居士百年忌記念 古田宗関』宮下玄覇著
- 2014年 『古田織部四百年忌図録』実行委員会(宮下玄覇)編
- 2015年 『没後四百年 古田織部展(補訂版)』宮下玄覇監修
- 2015年 (小冊子)『岡崎淵冲』宮下玄覇著
- 2015年 (小冊子・合本)『古田宗関 岡崎淵冲』宮下玄覇著
- 2016年 (ブックレット)『豊後『古田家譜』 ―古田織部の記録― 〈改訂版〉』古田織部美術館(宮下玄覇)編
- 2017年 『永井尚政 数寄に通じた幕府の重鎮』(深谷信子著、宮下玄覇企画、宮帯出版社)
- 2020年 (小冊子)『妙法院宮常胤法親王』宮帯出版社編集部(宮下玄覇)編
- 2022年 (小冊子)『安楽庵策伝』宮帯出版社編集部(宮下玄覇)編
流祖と流儀に関する主な講演 編集
- 2015年11月4日 宮下玄覇「古田織部の実像とその好みについて」(本能寺大寶殿、平成27年度第2回博物館講座、京都市内博物館施設連絡協議会)
エピソード 編集
- 2020年公開の映画『嘘八百 京町ロワイヤル』では、劇中でヒロインの広末涼子が宮下玄覇指導のもとこの織部流点前を行った[1]。加藤雅也は織部流茶会の亭主を務めている。
織部流門人 編集
安土桃山時代から江戸時代初期 編集
- 高弟
- 武士
- 徳川秀忠、伊達政宗、佐竹義宣、浅野幸長、島津義弘、小早川秀包、小早川秀秋、大久保忠隣、船越景直、大久保長安、大久保藤十郎、大野治長、大野治房、猪子一時、有馬豊氏、森忠政、加藤嘉明、竹中重利、石川康長、石川康勝、石河宗林、津田信成、小笠原秀政、古田重勝、井上高清、北条氏盛、小川祐滋、松平正綱、板倉重宗、南部利直、本多正信、本多正純、本多正勝、土井利勝、毛利秀就、蒲生秀行、榊原康勝、内藤政長、松平定綱、石川忠総、井上正就、丹羽長重、藤堂高虎、田中康政、花井吉成、松平康安、青山幸成、保科正光、水野忠元、仙石秀久、秋田実季、九鬼守隆、村上頼勝、阿部正次、佐野信吉、土方雄氏、松下重綱、鈴木元信(仙台藩)、妻木頼忠、永井尚政、佐久間勝之、佐久間政実、岡部宣勝、船越永景、土屋宗俊、鈴木左馬助(娘婿)、郡宗保、岡村百々之介(大坂衆)、伏屋一盛(大坂衆)、城昌茂
- 武士(茶堂・茶道役)
- 公家
- 僧侶
- 町衆
- 町衆(職人)
江戸時代 編集
- 武士
- 武士(茶道役)
- 兼席徳庵(萩藩)、名嶋玄竹(岩国藩)、小河内芦庵(岩国藩)
- 公家
- 僧侶
- 町衆
代 | 名 | 通称 | 号 | 庵号 | 道号 | 号 | 生没年 ※ | 身分 |
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初 | 古田重然 | 左介・織部助 | 印斎 | 玄庵 | 金甫 | 宗屋 | 1543年 - 1615年 | 東大和・南山城国 大名(1万石) |
2 | 土屋 | 金左衛門 | 宗俊 | - 1671年 | 久留米藩(400石)・福岡藩(200石)士 | |||
3 | 石原 | 宗林 | (延宝) | 福岡藩 御茶道(20石6人) | ||||
4 | 槙重賢 | 長左衛門 | 玉壺斎 | 艮山 | (宝永・享保) | 福岡藩 御家門(1200石) | ||
5 | 百野 | 湖月 | (元文) | 福岡藩 御茶道(20石6人) | ||||
6 | 百野林甫 | 宗湖 | (延享) | 福岡藩 御納戸組 御茶道(20石6人) | ||||
7 | 槙直村 | 玄蕃 | 釣寂軒 | 了山 | 宗空 | (天明・文化) | 福岡藩 御家門 大番頭(1400石) | |
8 | 古田広計 | 壱岐・中務 | 不染斎 | 温故堂 | 淵黙 | 宗深 | 1757年 - 1832年 | 岡藩 老職(1000石) |
9 | 古田重功 | 勘解由 | 玄室 | 宗経 | 1780年 - 1836年 | 岡藩 小姓番頭(400石) | ||
10 | 古田重剛 | 右馬允 | 家山 | 1808年 - 1887年 | 岡藩 近習物頭(400石) | |||
11 | 古田重名 | 小膳 | 印斎 | 燕雨庵 | 雲山 | 宗関 | 1839年 - 1913年 | (元服前)岡藩 御小姓(400石) |
12 | 岡崎惟素 | 谷神庵 | 淵冲 | 了徹 | 1840年 - 1905年 | 三菱商会 本社副支配人 | ||
小林五郎吉 | 楽只庵 | 淵穆 | (明治・大正) | |||||
佐藤とみ | 節楽庵 | 淵静 | (大正・昭和) | |||||
中田くに | 淵邦 | (昭和) |
※ ( )は活動期。
参考文献 編集
- 市野千鶴子校訂「織部茶会記」『古田織部茶書二』(思文閣出版)
- 宮帯出版社編集部「茶道家元系譜」『茶湯手帳』(宮帯出版社)
- 古田織部四百年遠忌追善茶会実行委員会編 『古田織部四百年忌図録』(宮帯出版社)
- 宮下玄覇『古田織部十四世宗関居士百年忌記念 古田宗関』(宮帯出版社)
- 宮下玄覇『岡崎淵冲』(宮帯出版社)
- 宮下玄覇『豊後『古田家譜』―古田織部の記録―〈改訂版〉』(古田織部美術館)
- 廣田吉崇「古織流茶道主客一日草」『茶書研究 第六号』(茶書研究会)
- 廣田吉崇「古田織部流八十一ヶ条口伝抄」『茶書研究 第九号』(茶書研究会)
- 織部流茶湯機関紙『金甫』(古田織部流茶湯研究会)
出典 編集
- ^ “第3回 織部賞 受賞者発表 【受賞者】映画『嘘八百 京町ロワイヤル』製作委員会”. 古田織部美術館. 2022年7月26日閲覧。
- ^ “「茶道」動画”. ふなっしー. 2022年7月26日閲覧。