岡崎 惟素(おかざき これもと、1840年(天保11年) - 1905年(明治38年)5月20日)は、日本の武士岡山藩士)、実業家三菱商会本社副支配人、日本郵船長崎支店長、日本逓業取締役東京株式取引所理事)、茶人織部流)。幼名は滝吉、のち滝之助。淵冲、谷神。

岡崎淵冲 肖像写真

生涯 編集

1840年(天保11年) 、備前国御野郡内田村(現・岡山市)生まれ。1870年明治3年)、30歳の時は、岡山藩家老で金川領主の日置健太郎支配の下級藩士陪臣)であった。廃藩置県後は東京に出て、官吏となるも、1877年(明治10年)36歳の時に岩崎弥太郎が創設した三菱商会書記係として入社。のちに本社副支配人となる。1887年(明治20年)、三菱の荘田平五郎内田耕作浅田正文岡本健三郎らと共に日本郵船共同運輸三菱汽船との合併会社)を創立した。

1898年(明治31年)、松浦詮(心月庵)伯爵が在京の華族名士等と設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員となる。会員は岡崎、松浦のほか、青地幾次郎(湛海)石黒忠悳(况翁)伊藤雋吉(宗幽)伊東祐麿(玄遠)岩見鑑造(葎叟)金澤三右衛門(蒼夫)戸塚文海(市隠)東胤城(素雲)東久世通禧(古帆)久松勝成(忍叟)松浦恒(無塵)三田葆光(櫨園)三井高弘(松籟)安田善次郎(松翁)の以上16人(後に益田孝(鈍翁)高橋義雄(箒庵)が入会)で、世に「十六羅漢」と呼ばれた。

1905年(明治38年)5月20日の明け方新宿の別邸に於いて没。享年65歳。谷中霊園に葬られた。戒名は正源院大心了徹居士。墓碑は一周忌である明治39年5月20日に嗣子の遠光により建てられた。

人物 編集

篤実な性格として知られ、武技を修めた読書家で、詩歌に通じ、特に茶道点前研究を行なった。は、南隠全愚(全生庵・白山龍雲院住職)、大徹道林(南禅寺派前管長、広園寺住職)に師事した。茶道は、織部流古田宗関より皆伝を受け「淵冲(えんちゅう)」と号し、茶室の庵号は谷神庵(三畳)で「谷神」とも号した。 平成時代になって淵冲の流れを汲む織部流温知会宮下玄覇により復会した。 書の鑑識眼にすぐれ、重要文化財「月礀文明 墨蹟」(現根津美術館蔵)などの墨蹟、継色紙「よの中は」などの名品を収集した。

家族 編集

養子に岡崎遠光(1869~1913、日韓瓦斯電気株式会社・専務取締役、大田電気株式会社・会長)がいるが早世した。子に滝之助がいる。惟素の二女琴は、甲野荘平(1868~、日本郵船社員、甲野時計製作所・社長)の妻となった。

親しい友人としては、朝吹英二(柴庵)渡辺荘、内田耕作がいる。茶人間では、和敬会の会員のほか伊藤幹一・古筆了仲・大久保北隠らと交友した。

著書 編集

  • 『各伝比較 点茶活法』(1902年、博文館)-茶道の諸流の点前を比較した大著。

参考文献 編集

  • 宮下玄覇『岡崎淵冲』宮帯出版社