名草 豊成(なくさ の とよなり)は、平安時代初期の貴族のち宿禰。名草島守の孫[1]官位従五位下駿河介

出自編集

名草氏(名草直)は紀伊国造の一族。豊成の男系の祖先は宗像氏(宗像直)であり、曾祖父・宗像横根が名草弟日の娘を娶り、所生の島守が養老5年(721年)に母姓を冒して名草姓を名乗ったという[1]

経歴編集

紀伊国出身。天長7年(830年大学博士承和4年(837年)直講を経て、承和8年(841年従五位下・助教に叙任される。また承和6年(839年正六位上位階にあった際、一族の安成と共に宿禰姓を賜与され、右京四条四坊に貫附されている。承和11年(844年)駿河介に任ぜられるが、年老いていたことから遙任であり、地方官の俸禄をもって教授するための資金に充てたという[2]

文徳朝仁寿4年(854年)従五位下に叙せられるが、同年8月25日卒去。享年83。最終官位は散位従五位下。

官歴編集

六国史』による。

人物編集

若い頃から老荘を学び、年を取ってからは五経を読解した。義理を通す性格で、弟子として多くの学生が属していたという[2]

脚注編集

  1. ^ a b 続日本後紀』承和6年9月23日条
  2. ^ a b 日本文徳天皇実録』仁寿4年8月25日条

参考文献編集