和帝 (漢)
和帝(わてい)は、後漢の第4代皇帝。章帝の四男。生母は梁貴人。平原懐王劉勝・殤帝の父。
和帝 劉肇 | |
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後漢 | |
第4代皇帝 | |
王朝 | 後漢 |
在位期間 |
章和2年2月30日 - 元興元年12月22日 (88年4月9日 - 106年2月13日) |
都城 | 雒陽(洛陽) |
姓・諱 | 劉肇 |
諡号 | 孝和皇帝 |
廟号 | 穆宗 |
生年 | 建初4年(79年) |
没年 |
元興元年12月22日 (106年2月13日) |
父 | 章帝 |
母 | 梁貴人 |
后妃 |
陰皇后 鄧皇后 |
陵墓 | 慎陵 |
年号 |
永元(89年 - 105年) 元興(105年) |
生涯編集
皇帝に即位編集
建初4年(79年)に章帝の四男として生まれるが、生母の梁貴人は宮廷内の争いの中で竇氏一族に殺害されていた。その後建初7年(82年)に皇太子に立てられ、章和2年(88年)に皇帝に即位する。当初は幼少のため養母の竇太后とその兄の竇憲ら竇氏一族の専横を許していたが、成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。この動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。
和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。永元4年(92年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇氏一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。
宦官の台頭編集
鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。
また和帝が若くして死去すると、幼帝の補佐として和帝の皇后である鄧氏の一族が外戚として政治の実権を握るなど、外戚勢力も復活した。以後の後漢でも幼帝が続き、その度ごとに外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。
政策編集
外征面は後漢で最も栄え、西域では永元6年(94年)の時点でその50余国が後漢に従うほどになった。これは西域都護の班超個人の力量に拠るところが大きく、班超が中央に召喚された後は後漢の西域における影響力は急速に衰えた。匈奴との戦いも匈奴の内紛に助けられ有利に進めた。
文化面では、班固・班昭兄妹による『漢書』の編纂(永元4年(92年)の班固の死後、班昭が完成)、永元17年(105年)の蔡倫による製紙法の改良が挙げられる。
宗室編集
太上皇 劉太公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
代王 劉喜 | (前1)高祖 劉邦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
呉王 劉濞 | 斉王 劉肥 | (前2)恵帝 劉盈 | 趙王 劉如意 | (前3)文帝 劉恒 | 趙王 劉友 | 淮南王 劉長 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉王 劉襄 | 城陽王 劉章 | *前少帝 劉某 | *後少帝 劉弘 | (前4)景帝 劉啓 | 淮南王 劉安 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中山王 劉勝 | 長沙王 劉発 | (前5)武帝 劉徹 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸城侯 劉貞 | (追)戻太子 劉拠 | (前6)昭帝 劉弗陵 | 昌邑王 劉髆 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)悼皇 劉進 | *昌邑王 劉賀 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(前7)宣帝 劉詢 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(前8)元帝 劉奭 | 楚王 劉囂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(前9)成帝 劉驁 | (追)恭皇 劉康 | 中山王 劉興 | 広戚侯 劉勲 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(赤眉)皇帝 劉盆子 | (緑林)更始帝 劉玄 | (後1)光武帝 劉秀 | (前10)哀帝 劉欣 | (前11)平帝 劉衎 | 広戚侯 劉顕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(後2)明帝 劉荘 | *劉嬰 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(後3)章帝 劉炟 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千乗王 劉伉 | 清河王 劉慶 | (後4)和帝 劉肇 | 済北王 劉寿 | (追)穆皇 劉開 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
楽安王 劉寵 | (後6)安帝 劉祜 | (後5)殤帝 劉隆 | *北郷侯 劉懿 | (追)崇皇 劉翼 | (追)元皇 劉淑 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
勃海王 劉鴻 | (後7)順帝 劉保 | (後10)桓帝 劉志 | (追)仁皇 劉萇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(後9)質帝 劉纘 | (後8)沖帝 劉炳 | (後11)霊帝 劉宏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(蜀1)昭烈帝 劉備 | *弘農王 劉辯 | (後12)献帝 劉協 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(蜀2)後主 劉禅 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃編集
男子編集
- 平原懐王 劉勝
- 殤帝 劉隆
女子編集
- 修武公主 劉保
- 共邑公主 劉成
- 臨潁公主 劉利 - 即墨侯賈建(賈復の曾孫で、賈宗の子の賈参の子)にとついだ
- 聞喜公主 劉興