国貞廉平

国貞 廉平(くにさだ れんぺい、1841年5月12日(天保12年3月22日) - 1885年明治18年)1月18日[1][2])は、幕末長州藩士[2]、明治期の官僚愛知県令。諱・景孝[2]、景廉、景行。通称・鶴之進、直之進、直人[2]、晩年には廉平[2]。変名・逸水清助。雅号・韓山[1][2]

経歴編集

長門国萩城下松本村で長州藩士・国貞要助の嫡男として生まれた[1][3]藩校明倫館で学び、万延元年(1860年江戸の有備館に入り、大橋訥庵の指導も受けた[1][2]文久2年(1862年藩世子の近侍となる[3][2]慶応2年正月(1865年)鎮静会議員に加わり内乱の収拾に尽力[3]。同慶応2年5月、干城隊頭取兼文学寮都講となり、さらに国政方を務めた[1][2]幕長戦において同慶応2年末に小倉藩との和議を担当[1][3]。慶應3年11月1867年)、上京諸隊の参謀を務めた[3]

明治元年(1868年)に帰藩し、御用所役に就任。以後、参政・山口藩大参事[2]、同少参事などを歴任[1]。明治2年12月(1870年諸隊脱走兵反乱への対応を行う[3]1874年内務省に出仕し、名東県参事愛知県参事、同大書記官を歴任[1][2]

1880年3月8日、愛知県令に就任[2]自由民権運動の最盛期であり、県会と衝突を重ねたが、備荒儲蓄法、公娼・席貸営業廃止運動については県会と協力して推進した[4]。在任中に肺炎のため病死した[1][2]

脚注編集

参考文献編集