塩田三郎
幕末期の幕臣、明治時代の外交官
塩田 三郎(しおだ さぶろう、天保14年11月6日(1843年12月26日) - 明治22年(1889年)5月12日[2])は、日本の武士、外交官。本名は篤信。号は松雲。
来歴
編集塩田順庵の三男として江戸に生まれ、宮川氏に養子に出される。箱館奉行栗本鋤雲に漢学、メルメ・カションに英仏両語を習う。幕府の通弁御用となり文久3年(1863年)には遣仏横浜鎖港談判使節団に随行と共に、兄が病没したため塩田氏に戻る。2年後、再び英仏に渡る。元治2年(1865年)に幕府が横浜仏語伝習所を設立すると、実質的な校長であったカションからの依頼で助手を務めた。慶応3年(1867年)に外国奉行支配組頭に進む。維新後、民部省に出仕した後外務省に出仕し、明治6年(1873年)に外務大丞。その後、外務少輔になり、井上馨外務卿の条約改正交渉を補佐する。同18年(1885年)に清国への特命全権公使として従三位勲二等、旭日重光章を賜り清国に駐在するが、同22年(1889年)、北京にて死去。享年47。
官歴
編集- 明治3年4月17日 - 民部省出仕[2]
- 明治4年6月5日 - 特例弁務使として電信会議のためローマへ出張[2]。
- 明治5年10月14日 - 外務省中廃大少記[2]
- 1873年(明治6年)4月5日 - 帰国[2]
- 1874年(明治7年)6月24日 - 本局出仕[2]
- 1875年(明治8年)4月4日 - 電信御用に付き理事官としてロシアへ出張[2]。
- 1876年(明治9年)1月5日 - 帰国[2]
- 1877年(明治10年)1月11日 - 廃官[2]
- 1878年(明治11年)7月4日 - 大幸丸仲裁の一件格別勉勤に付き其の賞として金百円下賜[2]。
- 8月31日 - 千葉県へ出張[2]
- 1879年(明治12年)11月21日 - 条約改正取調掛 兼務[2]
- 1880年(明治13年)3月18日 - 外務省三等出仕[2]
- 1881年(明治14年)6月28日 - 農商工上等会員[2]
- 1882年(明治15年)1月25日 - 条約改正予議会副委員[2]
- 1884年(明治17年)3月1日 - 任 参事院議官、三等官相当 年俸三千五百円下賜[2]。
- 1885年(明治18年)3月4日 - 破産法編纂委員[2]
- 1886年(明治19年)3月16日 - 改交際官官制勅任一等[2]
- 1887年(明治20年)7月8日 - 帰国[2]
- 1889年(明治22年)5月11日 - 特旨を以位階被進[2]
栄典・授章・授賞
編集- 明治3年6月23日 - 正七位[2]
- 明治4年12月9日 - 従六位[2]
- 1873年(明治6年)
- 1880年(明治13年)3月18日 - 正五位[2]
- 1886年(明治19年)
- 1889年(明治22年)5月11日 - 正三位[2][6]
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
脚注
編集- ^ ジャック=フィリップ・ポトーが撮った日本人フィリップ・グローバー、 ピット・リヴァース博物館
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo 『官報』第1760号「彙報 - 故塩田特命全権公使履歴」1889年5月15日。
- ^ 『太政官日誌』明治6年、第152号
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第1758号「授爵叙任及辞令」1889年5月13日。
- ^ 『官報』第196号「賞勲叙任」1884年2月27日。
- ^ 『官報』第554号「賞勲叙任」1885年5月9日。
- ^ 『官報』第557号「賞勲叙任」1885年5月13日。
- ^ 『官報』第781号「官庁事項」1886年2月12日。
関連項目
編集公職 | ||
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先代 芳川顕正 |
外務少輔 1881年 - 1884年 |
次代 (欠員→廃止) |