大江維時

平安時代の貴族、学者。大江千古の三男。従三位・中納言、贈従二位。勅撰集『新勅撰和歌集』に1首入集

大江 維時(おおえ の これとき)は、平安時代前期から中期にかけての公卿学者伊予権守大江千古の三男。官位従三位中納言従二位

 
大江維時
大江維時・『前賢故実』より
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 仁和4年(888年
死没 応和3年6月7日963年7月5日
別名 江納言、江二(
官位 従三位中納言従二位
主君 醍醐天皇朱雀天皇村上天皇
氏族 大江氏
父母 父:大江千古、母:巨勢文雄
兄弟 維明、維望、維潔、維時
藤原遠忠娘
重光、斉光、皎子
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経歴

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大江氏の血だけでなく、祖父大江音人の門弟であった巨勢文雄を外祖父に持ち、早くからその才能を発揮する。醍醐朝半ばの延喜16年(916年文章生に補せられる。29歳での文章生は当時の他の例と比較するとやや遅いものの、翌延喜17年(917年)に僅か1年で文章得業生になっており、文章得業生への選抜の早さから考えると、維時は抜群の才能の持ち主であったことを窺わせる[1]

延喜21年(921年六位蔵人となるが、その在任中から侍読も務める。延長6年(928年)に蔵人により従五位下への叙爵を受け、大学助に任ぜられている。その後、延長7年(929年文章博士、承平5年(935年)式部少輔、天慶2年(939年)大学頭と学者としての官職を歴任し、承平4年(934年)従五位上、天慶2年(939年正五位下、天慶4年(941年従四位下と2歳年上で従兄弟の大江朝綱と肩を並べて昇進を重ねた。

天慶7年(944年)式部大輔に任ぜられるとともに、春宮・成明親王の東宮学士を兼ねる。天慶9年(946年)成明親王が即位村上天皇)すると、維時は学士の功労により二階昇進して正四位下に叙せられる。天暦4年(950年)には朝綱に先んじて参議に任ぜられ、祖父の大江音人以来約70年ぶりに大江氏からの公卿となった。

議政官の傍らで式部権大輔を兼帯し、天暦9年(955年)に従三位に叙せられる。また、天徳元年(957年)撰国史所別当となり、『新国史』の編纂に参画している。天徳4年(960年)には73歳で中納言に昇った。応和3年(963年)6月7日薨去享年76。最終官位は中納言従三位。醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇の三代の侍読を務めた功労により従二位贈位を受けた。

人物

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学士として仕えた成明親王の命により前代の人々の漢詩を集めた『日観集』、中国の漢詩を集めた『千載佳句』を編纂した。また、に留学して中国の兵法『三略』を学び、それを『訓閲集』という120巻の書物に記している。また、日本最古の兵書といわれる『闘戦経』の作者に比定されている。

逸話

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  • 記憶力に優れ、平安遷都以降の人物の死没年や屋敷の移り変わりの様子などを把握していたとされる(『続古事談』)[2]
  • 従兄弟の大江朝綱とはライバル同士であったが、維時の子孫である大江匡房が著した『江談抄』では「維時は才学においては朝綱よりも優れていたが、文章においては朝綱の敵ではなかった」と評されている[3]。実際に『本朝文粋』に採録された当時の執政・藤原忠平の文書の草案は全て朝綱によるもので、維時の手による文書は存在しない。
  • 村上朝において、内裏屏風を飾る漢詩を大江朝綱・橘直幹菅原文時の3人に作らせ、維時に選定させた[4]。この時、菅原文時は黄帝が「洞庭」の地でを開いた故事を詩にして傑作を書き上げたが、維時は「文時は洞庭湖の詩を読んでいるが、黄帝が楽を始めたのは呉の洞庭(太湖に浮かぶ山)である」と指摘して酷評した。結局、他の詩は採用されたものの、文時はこの時の屈辱を死の間際まで恨んだと言う(『江談抄』)[5]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 井上[2014: 83]
  2. ^ 『続古事談』巻2臣節
  3. ^ 『江談抄』第5-51
  4. ^ 『日本紀略』天暦3年条
  5. ^ 『江談抄』巻4-19
  6. ^ 或いは大学頭

参考文献

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