婦人民主クラブ
ウィキメディアの曖昧さ回避ページ
婦人民主クラブ(ふじんみんしゅくらぶ)は、日本の女性権利団体。過去の経緯から以下のようになっている。
- 1946年、宮本百合子、佐多稲子、羽仁説子、加藤シヅエ、松岡洋子らによって結成された団体。1970年の第24回大会で反主流派を除名した以降は主流派の名称となった。1991年に自らの機関紙の題名「ふぇみん婦人民主新聞」からとり、「ふぇみん婦人民主クラブ」と名乗るようになった。佐多が長らく会長を務めた。→ふぇみん婦人民主クラブ
- 1の第24回大会で解散させられた反主流派22支部会員が集まり、1970年6月28日に「婦人民主クラブ再建連絡会」を結成した[1]。のち、1986年に「婦人民主クラブ(再建)」と名乗り、2007年1月より「婦人民主クラブ」の名称を用いている。日本共産党系[2][3]。本項で詳述する。
- 1から1984年に分裂した「婦人民主クラブ全国協議会」[4]。中核派系とされる[5]。元相模原市議会議員の西村綾子が長らく代表を務めていた。
本項では2について記述する。
概説
編集1945年11月、宮本百合子、佐多稲子、羽仁説子、加藤シヅエ、松岡洋子、山室民子、山本杉、赤松常子の8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始[6][7]。準備会が重ねられ、1946年3月16日、「婦人民主クラブ」の創立大会が神田共立講堂で行われた[6][8][9]。初代委員長には松岡が就いた[10]。
1960年代に女性団体の政党系列化が進むなかで、路線問題をめぐって内部対立が生まれる。
1970年6月6日、7日に行われた第24回大会で、主流派・反主流派に分裂した。反主流派である親日本共産党派の中央委員16人、支部長7人は除名処分を受け、23の支部が解散させられた[11][12]。同年6月28日、反主流派22支部会員が集まり「婦人民主クラブ再建連絡会」が結成された[1]。代表には色部百合子が就いた[11]。
1984年、婦人民主クラブ再建連絡会が再分裂し、「婦人民主クラブ全国協議会」が新たに結成された[4]。婦人民主クラブ全国協議会は中核派系とされる[5]。
1986年、「婦人民主クラブ再建連絡会」は「婦人民主クラブ(再建)」と改称した。2006年11月に行われた全国大会で、「(再建)」を取り、名称を元の「婦人民主クラブ」に改称することを決めた。
主流派は「婦人民主クラブ」の名のまま活動を続け、1991年に「ふぇみん婦人民主クラブ」と名乗るようになった[9]。
団体データ
編集活動
編集機関紙
編集- 婦民新聞
- 月3回刊
- 購読料月額600円(送料込)
脚注
編集- ^ a b 『全国組織婦人団体名簿』 1981, pp. 15–16.
- ^ “平和へ手をつないで 婦人民主クラブ(再建)60周年のつどい”. しんぶん赤旗 (2006年3月20日). 2024年2月26日閲覧。
- ^ “女性暴力撤廃へ 声あげ続ける 国連制定「国際デー」呼応”. 日本共産党東京都委員会 (2021年11月26日). 2024年2月26日閲覧。
- ^ a b “私たちのあゆみ”. 婦人民主クラブ. 2024年2月26日閲覧。
- ^ a b “若い世代の奮闘に共感 婦民全国協が第37回総会を開催”. 週刊『前進』 (2020年9月7日). 2024年2月26日閲覧。
- ^ a b 『航路二十年』 1967, pp. 11–14.
- ^ 『日本女性史大辞典』, pp. 639–640.
- ^ “ふぇみんとは”. ふぇみん婦人民主クラブ. 2024年2月20日閲覧。
- ^ a b 『婦人民主クラブ』 - コトバンク
- ^ 『全国組織婦人団体名簿』 1981, pp. 2–3.
- ^ a b 『月刊婦人展望』1986年4月号、財団法人市川房枝記念会出版部、11頁。
- ^ 『前衛』1974年1月臨時増刊号、日本共産党中央委員会、305-307頁。
- ^ a b “「女性部会」とは”. 婦人民主クラブ. 2024年2月26日閲覧。