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幕末維新勤王志士物語叢書:『白虎隊』より「婦女隊の奮戦」

婦女隊(ふじょたい)は、会津戦争において、会津藩江戸詰勘定役中野平内[1]の長女、中野竹子らにより自発的に組織された女性だけの郷里防衛隊である。

娘子軍(じょうしぐん)、娘子隊(じょうしたい)と呼ばれることもあるが、編成時には名称は定まっていなかった。参加者らは娘子軍[2][3]や婦女隊と呼び合い[4]、『会津戊辰戦史』でも特に隊名を記さず[5]、単に「女隊」と表記している[4]。いずれも隊の正式な名前ではなかったが、当項目では「婦女隊」で統一する。

目次

概要編集

慶応4年(1868年)8月23日、新政府軍鶴ヶ城(若松城)下へ進攻してきた際、前会津藩主松平容保の義姉にあたる照姫[6]が会津坂下に避難しているという情報を耳にした中野竹子らが、照姫を護衛するため自発的に組織したのが、婦女隊であった[7]

照姫を護衛すべく会津坂下に向かった婦女隊であったが、この情報は誤報であり、照姫を発見することが出来ず、すでに城門も閉ざされていた。やむなく、会津坂下の法界寺に宿泊した。すると24日、付近の高瀬村に会津勢が通ったので、指揮官の家老萱野権兵衛に従軍を申し出たが、女子であるために拒否された。しかし彼女たちはさらに部隊長である町野主水に掛け合って、従軍が叶わなければ自害すると熱く迫ったので、翌日先鋒となる古屋佐久左衛門衝鋒隊の攻撃に加わることが許された。

翌25日、宿願叶い戦闘に参加することになった。捕縛されて辱めを受けることも非常に恐れた婦女隊(参戦約十名)は文字通り死を決していて、涙橋の戦い[8]で壮絶な奮戦を見せた。新政府軍の大垣・長州勢[9]は衝鋒隊に女子が混ざっているのを嘲笑って生捕ろうとするが、その武勇に驚き、慌てて銃を取り、銃弾の雨を降らした。

薙刀で突進した中野竹子は額に銃弾を受けて戦死した。首級は新政府軍に奪われることをよしとしなかったので、妹中野優子はすでに息絶えた姉を介錯[10]してその首を白羽二重に包んで回収した[11]。なお、竹子は胸を撃たれて倒れたという説もあり、その場合はまだ息があって自ら優子に介錯を頼んだという話となる。

軍事奉行添役として鳥羽・伏見の戦いの不手際で自害させられた神保修理の未亡人で、美貌で知られた神保雪子は、同じく戦死したとも、捕縛されたとも言う。一説には、雪子は大垣兵に生け捕りにされた際に幽閉され、会津坂下長命寺におかれ解放されないので、脇差で自刃したという[12]。経過は不明だが、いずれにしてもこの日に彼女も死亡した。

残る婦女隊は、衝鋒隊、町野隊らに従い、高瀬村まで退却した。ここで萱野権兵衛は軍奉行柴太一郎と共に婦女隊を見舞った。血潮に染まった衣服で薙刀に初陣の手柄の跡が残っていると言う面々に涙を流して感服したが、「今日の実戦は大筒小筒の争いである」と諭して「婦女子が戦場の露と消えるは我らの本意にあらず」と再度説得。隊長格をすでに失った婦女隊は事実上、解散となった。

その後、彼女たちは、数日間、涙橋周辺に留まってから鶴ヶ城に入り、他の女性と同様に籠城の支援に回った。なお、同城下での戦闘では、極めて多くの藩士の妻や子女が自害している。

婦女隊の服装、武装編集

頭髪は(肩に届かないほどに)斬髪し、男姿となり、頭には白羽二重の鉢巻きをして、着物は女の着物に袴という服装。

武器は大小の刀に薙刀であったが、新島八重は刀や薙刀ではなく鉄砲で戦うべきと考え、婦女隊には参加しなかった[4]

着物については、以下の服装であったとされる。

  • 中野こう子 鼠がかった黒の着物
  • 中野竹子 青みがかった縮緬の着物
  • 中野優子 紫の縮緬の着物
  • 依田まき子 浅黄がかった着物
  • 依田菊子 縦縞の入った小豆色の縮緬の着物
  • 岡村ます子 鼠がかった黒の着物

婦女隊士構成編集

  • 中野こう子(中野平内の妻、竹子らの母、44歳)
  • 中野竹子(20歳または22歳)
  • 中野優子(竹子の妹、16歳)
  • 神保雪子神保修理の未亡人、23歳)
  • 依田まき子(藩士依田源治の未亡人、35歳)
  • 依田菊子(まき子の妹、18歳)
  • 岡村ます子(30歳)
  • 平田小蝶[13](藩士平田門十郎の次女[14]・江戸の赤岡大輔の養女として竹子の義妹[15]、18歳)
  • 平田吉子[16](小蝶の妹、16歳)

をはじめとした二十余名。中野竹子は隊長という説があるが、年長者である中野こう子が指図役(実質的な指導者)であったとする説もある[17]。基本的には母子・姉妹・知人友人の集まりであって、組織らしい組織をもっていなかったので、上下の差はなく結成時に隊長という定義はなかった。

関連作品編集

  • 八重の桜 - 前半の会津編に登場する。
  • 「戊辰の紅葉」
同名の『戊辰之紅葉』(二瓶由民著、明治23年刊)を基にして書かれた小説。福島県会津若松市の合同会社アレックのご当地萌えキャラ企画「萌えの桜」でスピンオフ題材として再構成。

脚注・出典編集

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  1. ^ 中野平内は照姫の祐筆を務めたことがあった。
  2. ^ 娘子軍は、これ以前よりあった言葉で、女性だけの参加する軍隊をさす普通名詞である。
  3. ^ 一方で、娘子軍は後になって平石弁蔵が便宜的に命名したもので、戊辰戦争当時の会津には存在しなかった呼称であるとする説もある(細川涼一「幕末の女性とペットとしての狆」『クロノス』29号、京都橘大学女性歴史文化研究所、2008年10月。後、細川『日本中世の社会と寺社』思文閣出版、2013年所収。)。
  4. ^ a b c 石田明夫(会津古城研究会長) (2012年8月26日). “娘子軍の結成と八重”. 福島民友. http://www.minyu-net.com/serial/yae/120826/rintosite.html 2015年8月24日閲覧。 
  5. ^ 会津戊辰戦史編纂会 1933, pp.566-567
  6. ^ 会津藩の女性の最高位にあり、藩士子女全員の指導的地位にあった。
  7. ^ 依田姉妹は、まき子の夫が鳥羽・伏見の戦いで討死したので、薙刀を習って雪辱に燃えていた。『会津落城』
  8. ^ 「柳橋」とも言う。
  9. ^ 指揮官は、有地品之允、原田良八、九鬼円之助(戦死)
  10. ^ 母のこう子または農兵が介錯したとする説もある。
  11. ^ 中野竹子の薙刀には「もののふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬわが身ながらも」と辞世を記した短冊が結ばれていたという。「新説戦乱の日本史」
  12. ^ 松邨賀太 『開化期の若き啓蒙学者達』 文芸社、2005年、138頁。ISBN 4835586166 
  13. ^ 名は蝶子とも言う。
  14. ^ 長女とも言うが、墓石には姉富子の名がある。
  15. ^ 二人とも復籍したので、養女だった頃に姉妹だったという意味。竹子と同じく薙刀の使い手。戦後、会津藩士戸田衛門と結婚して東京で没。
  16. ^ 名は吉とも言う。
  17. ^ 「新説戦乱の日本史」「少年輝く白虎隊」ほか。

参考文献編集

涙橋の戦いについて

関連項目編集