メインメニューを開く
古屋佐久左衛門

古屋 佐久左衛門(ふるや さくざえもん、天保4年(1833年) - 明治2年5月16日1869年6月25日))は、江戸時代末期(幕末)の武士幕臣軍人。旧姓は高松、通称は勝太郎。実弟に高松凌雲

生涯編集

天保4年(1833年)、筑後国御原郡古飯村(現・福岡県小郡市)の庄屋の次男として生まれる。

大坂で医学を修め、江戸に洋学や剣術を学び、古屋家の養子となり御家人になる。神奈川奉行所運上所の定役となる。野毛の官舎に住み、長老派宣教師ヘボン英語洋学を学ぶ。文久2年(1863年)には、神奈川奉行所通訳となった。その後、横浜に駐屯していたイギリスの軍隊に用兵術を学び、英語の兵書を翻訳し『英国歩兵操典』『歩兵操練図解』を著した。なお、このときの部下に今井信郎がいる。慶応元年(1865年)には、西洋式軍隊訓練場である太田陣屋の普請係となった(慶応2年春に竣工)。慶応2年(1866年)2月、歩兵差図役に任じられ、慶応3年(1867年)4月に伝習隊江戸に移ると、越中島などにて幕府陸軍の訓練を担当した。

戊辰戦争開戦時は幕府陸軍で歩兵差図役頭取の要職にあった。慶応4年(1868年)2月5日から7日にかけて、鳥羽・伏見の戦いで指揮官佐久間信久が戦死した第11連隊と、同じく戦死した窪田鎮章の第12連隊の残存兵力約1,000人が麹町三番町の兵舎から脱走した。その後、逃亡や捕縛などでその数は半数に減ったものの、約500人が下野方面に屯ろしていた。2月10日頃、佐久左衛門は陸軍総裁勝海舟の許可を得て、元京都見廻組の今井信郎らと共に脱走兵取締のために江戸を出発し、塩谷郡佐久山宿(現在の栃木県大田原市佐久山)にて脱走兵を説得し帰順させる。それらを忍藩に預けて自身は江戸に戻ると、歩兵頭並に任じられて信濃鎮撫の命令を受け、3月上旬に新たに500人の兵を率い、先に帰順した400名と合流、武蔵羽生陣屋に入り、900名の部隊を結成する。8日には羽生を出発し、下野国梁田郡梁田宿に入るが、翌9日未明に古屋隊は大垣藩兵を主力とする官軍の奇襲攻撃を受け、62名の死者を出して敗走した(梁田の戦い)。

翌日、鹿沼にて部隊を再編成し、藤原を経て22日には、会津に入り松平容保に謁見し、24日には部隊名を衝鋒隊に改める。翌25日には、若松城下を発ち、水原をへて4月1日、新潟に着いた。その後、11日には、与板へ移動、与板藩から軍資金の提供を受け、高田を経て、飯山城を信濃平定の拠点にすべく、23日には飯山城下へと迫った。25日、衝鋒隊と、官軍の松代尾張藩兵との間に戦闘が始まった。戦いの前半は衝鋒隊が優勢であったが、玉虫色の態度を示していた飯山藩が、衝鋒隊に対して突然発砲、衝鋒隊は総崩れになり敗北した(飯山戦争)。越後へ退却すると、高田藩の裏切りにあって襲撃され、衝鋒隊は四分五裂となり敗走した。しかし小千谷にて再結集し、閏4月27日からの鯨波戦争では小千谷市南方に位置する雪峠にて会津軍と共によくこれを守ったが、官軍の3度に渡る波状攻撃を受け、小千谷を放棄、片貝村へと退いた(その後の展開は北越戦争参照)。

その後、衝鋒隊は8月末まで、越後国で交戦を続けていたが、翌9月には米沢藩の降伏、若松城下に官軍が進出するなどの状況になり、会津方面に撤退。若松城籠城軍と合流を試みるも、城は包囲されており、福島を経て、9月14日、白石に到着。10月10日には、石巻から榎本艦隊に合流し箱館に向かった。蝦夷共和国では歩兵頭に就任。明治2年(1869年)5月12日、箱館五稜郭で新政府軍軍艦による艦砲射撃を受けて重傷を負い、4日後の16日に死去した。享年37。

人物編集

  • 神奈川奉行所時代の文久2年(1863年)4月6日、日本人の子供が、イギリス人騎乗の馬に蹴られて負傷する事件が発生した。この問題を古屋が、特技の英語を駆使して、英国領事から治療代を支払わせることに成功した。
  • 洋学者として著名で、門弟100人以上といわれた。

扱われた作品編集

参考書籍編集

  • 長谷川伸『佐幕派史談』「古屋 佐久左衛門」中公文庫 1976年
  • 真下菊五郎 『明治戊辰梁田戦績史』 マツノ書店、2010年1月、復刻版。
  • 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』東洋書林 1997-1998年

関連項目編集

外部リンク編集

  • [1]古屋佐久左衛門の手紙