安田二郎 (中国哲学者)

日本の哲学者

安田 二郎(やすだ じろう、1908年明治41年)[1] - 1945年昭和20年)[1][2]2月27日[2][注釈 1])は、日本の中国哲学研究者。宋明理学戴震孟子字義疏証中国語版』の研究で業績を残した。吉川幸次郎らに将来を嘱望されたが[2]、37歳の若さで病没した[1][注釈 2]

生涯 編集

岐阜県養老郡笠郷村船附出身[2]名古屋八高に入学後左翼とみなされ中退するが、京都帝国大学文学部長の濱田耕作の許可により進学[2]。1935年(昭和10年)同哲学科(通称「純哲」)卒業[1][2]。純哲では田辺元武内義範らと師事する。卒業論文は『中庸について』[1][2]

純哲の大学院に進学し朱子学を専攻[2]吉川幸次郎の講読に出席した際、中国哲学科の学生よりも優秀だったため吉川に注目される[2]。文学部助手となった後、1939年(昭和14年)吉川と小島祐馬の斡旋により、京都東文研嘱託員(のち助手、副研究員)となる[2]。京都東文研では『尚書正義』定本作成や『朱子語類会読に参加し[2]、近い世代の島田虔次[4]入矢義高[5]と交流する。

1944年(昭和19年)春2ヶ月、入矢義高・田中謙二北京に留学する[2][5]。旅中から痔疾を患い帰国後即京大病院に入院[2]。愛妻の看病を受けるも、看病疲れと戦中の物資不足で先立たれる[2]。郷里の船附に帰り、1945年(昭和20年)2月27日、同地で没する[2]。享年37[1]

人物・評価 編集

純哲出身で西洋哲学や思弁的方法に通じながら、中国哲学研究の文献学的方法に順応し、安易な東西類似視を批判した[2]。その宋明理学解釈は、独創性よりも文献学的誠実性を重んじ[2]津田左右吉島田虔次山下龍二らの解釈と対立しつつも[6][1]吉川幸次郎[2]土田健次郎[6][7]に高く評価されている。戴震孟子字義疏証中国語版』の研究も高く評価されている[8]

為人は寡黙で礼儀正しく、穏やかな微笑が特徴的だったとされる[2][5]

書籍 編集

いずれも国立国会図書館デジタルコレクション(NDLJP)で閲覧可能。

戴震『孟子字義疏証』の翻訳(訓読)と解説。附: 吉川幸次郎「安田二郎君伝」、入矢義高「編者後記」。
上記『孟子字義疏証』を近藤が増補したもの。「中国文明選」は吉川幸次郎が監修する叢書。
論文集。附: 吉川幸次郎「序」、武内義範「安田君の遺著の後に」。筑摩版のみ附: 島田虔次「解説」、入矢義高「後記」。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 1911年(明治44年)12月 - 1955年(昭和30年)とする出典もある[3]
  2. ^ 38歳とする出典もある[2]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g 島田虔次「解説」、安田二郎『中国近世思想研究』筑摩書房、1976年。NDLJP:12213691/121
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 吉川 1969.
  3. ^ 『中国文明選8 戴震集』奥付、NDLJP:12212353/312
  4. ^ 「座談会「先学を語る」――島田虔司先生」『東方学』125、東方学会、2013年(小野和子狭間直樹三浦國雄・森紀子・吉川忠夫による座談会、附略歴)190頁。
  5. ^ a b c 入矢義高「後記」、安田二郎『中国近世思想研究』筑摩書房、1976年。NDLJP:12213691/241
  6. ^ a b 土田健次郎<中国学 わたしの一冊> 安田二郎『中国近世思想研究』」『未名』神戸大学中文研究会、2017年。NAID 120006823950
  7. ^ 土田健次郎日本における宋明思想研究の動向」『日本思想史学』37、日本思想史学会、2005年、NAID 40007192203。84頁。
  8. ^ 建部良平「人情と科学の哲学者:戴震及びデイヴィッド・ヒュームの比較可能性についての試(私)論」『比較文学・文化論集』37、 東京大学比較文学・文化研究会、2020年。NAID 120007115929。24-26頁。

参考文献 編集

  • 吉川幸次郎「安田二郎君伝」『吉川幸次郎全集 第17巻』筑摩書房、1969年、359-366頁。 (初出: 上記『孟子字義疏証』NDLJP:2970865/133。再録: 吉川幸次郎『雷峰塔』筑摩書房、1956年)

関連項目 編集