弘文学院(こうぶんがくいん)は、明治期の日本において、清国からの留学生のために嘉納治五郎が創立した教育機関である。旧名は亦楽書院、のち弘文を宏文に改め、宏文学院と称した。日本における組織的な「留学生に対する日本語教育」の嚆矢と言われる[1]。11年間で7000人以上が学び、約3800人が卒業した[2]

概説 編集

日清戦争が終わった翌1896年(明治29年)、清朝政府は日本へ派遣する留学生の受け入れを日本政府に依頼した[3]。駐日公使裕庚より依頼を受けた西園寺公望(外相兼文相)は、東京高等師範学校長であった柔道家の嘉納治五郎に一任し、嘉納は東京神田区三崎町の民家を借りて清国人留学生13名を受け入れる私塾「亦楽(えきらく)書院」を1899年に設け、日本語や数学・理科・体操などの教科を教えた[3][4]

留学生の増加に伴い、1901年に牛込区西五軒町の敷地3000坪の大邸宅に移転して弘文学院として発足、梁啓超は嘉納治五郎と友好的になり、1902年初めに東京大同高等学校を亦楽書院に併合し、弘文学院[5]として設立することを決定した。1903年(明治36年)乾隆帝の諱の「弘暦」の「弘」を避諱して、宏文学院と名称を改めた。在校生数は500名にのぼり、1904年には分校4校を開いた[1]

教育課程としては、日本語を中心に、英語、数学、理科、地理、歴史などの諸学を学び上級学校への進学を目指す普通科と呼ばれる3年の課程と、速成科と呼ばれる2年以下の課程があった[4]作家魯迅もこの弘文学院普通科で2年間学んでいる[3]

1906年頃の東京には約8000人の清国人留学生がいたとされ、当時、宏文学院は1556名の生徒を抱える最大の留学生教育機関であったが、清国の留学政策の転換や日本語学校乱立により文部省が公布した「清国人ヲ入学セシムル公私立学校二関スル規程」に対する留学生の反発があったことなどから生徒数が激減し、1909年(明治42年)7月に閉校した[4][2]。創立から閉校までの入学者総計は7192名、卒業・修業者は総計3810名を数えた[2]

背景 編集

清国は1840年代のアヘン戦争、1850年代のアロー戦争などによって欧米諸国の威力を知り、西洋文明の摂取の必要性を自覚した。また、1895年には日清戦争において、明治維新以来いち早く西洋文明を取り入れて近代国家に成長しつつあった日本に敗北した。日本に留学生を派遣するに至った背景には、こうした清国の近代化が急がれる中、西洋文明の摂取には日本に学ぶのが早道であると梁啓超張之洞らが説いたことによるところが大きい[2]

出身者 編集

教師 編集

日本語教授陣には、国文法上の大家である三矢重松松下大三郎、日本語教師の松本亀次郎、中国語学者の井上翠[6]らがいた[4]。そのほか、本田増次郎正木直太郎門馬常次(のち滝乃川学園代表理事)、三沢力太郎(数学)らがいた。学習院教授だった東野十治郎[7]嘉納治五郎の嘱託を受けて1904年に宏文学院の数学教授に転じ、清国学生のために数学関係の教科書を編集した[8]

出典 編集

  1. ^ a b 『日本語教育史研究序説』関正昭、スリーエーネットワーク, 1997、p85-87
  2. ^ a b c d 老松信一「嘉納治五郎の中国人留学生教育」『武道学研究』第8巻第2号、日本武道学会、1976年、27-28頁、doi:10.11214/budo1968.8.2_27ISSN 0287-9700NAID 130004574469 
  3. ^ a b c 藤井(2011年)52ページ
  4. ^ a b c d 増田光司「宏文学院編纂『日本語教科書』について」『東京医科歯科大学教養部研究紀要』第41巻、国立大学法人 東京医科歯科大学教養部、2011年、11-31頁、doi:10.11480/kyoyobukiyo.41.0_11ISSN 0386-3492NAID 110008448387 
  5. ^ 梁啓超の郷里の宏文社学から名づけた
  6. ^ 井上翠コトバンク
  7. ^ 東野十治郎人事興信録 第12版(昭和14年) 下
  8. ^ 西師意の中訳日本書(再考)舒志田 立教大学日本学研究所年報 19 70-52, 2020-10

参考文献 編集

  • 藤井省三『魯迅-東アジアを生きる文学』(2011年3月19日、岩波新書、ISBN 9784004312994

関連書 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集