宮田光雄 (内務官僚)
来歴・人物編集
三重県一志郡出身。村長宮田宇吉の長男として生まれる。愛知一中、三高、帝国大学法科大学卒(のちの東京帝国大学法学部)。
貴族院官僚として奉職するも、衆議院議員として三重県より立候補、その後は勅撰貴族院議員として活躍。原敬首相の目にとまり福島県知事として赴任。1922年(大正11年)6月12日に加藤友三郎内閣で内閣書記官長として抜擢され、大腸癌を患う加藤友三郎首相にかわり国政を取り仕切る。1924年(大正13年)1月2日、貴族院勅選議員に任じられた[2]。
1927年(昭和2年)4月20日警視総監。1928年(昭和3年)12月28日従三位勲一等瑞宝章受章。
大政翼賛会興亜総本部長を経て、終戦時の陸軍参謀総長梅津美治郎の東京裁判での弁護人も勤める。戦後公職追放となる。
1936年にプロ野球の大東京軍が発足した際には、球団の出資元の國民新聞からの依頼を受けて、取締役会長に就任した。
親族編集
- 相浦多三郎 - 妻の父。陸軍少将。
栄典編集
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許