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寒河尼/寒川尼(さむかわのあま/さむかわに、保延3年(1137年)- 安貞2年2月4日1228年3月11日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。八田宗綱の娘。下野国の豪族・小山政光の後妻で、結城朝光の母。源頼朝の乳母も務めた。本名は不詳。『吾妻鏡』で「寒河尼」と記されている。寒川郡の他にも地頭として補任された地である阿志土郷(小山市網戸)から網戸尼(あじとに)とも称された[1]

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生涯編集

宇都宮氏小田氏の祖、八田宗綱の娘で京都で生まれたと思われる。女房として近衛天皇に仕えた経歴をもっていたという(『老士雑談』)。頼朝の乳母の一人となり、やがて小山政光の後妻となったと考えられている。

治承4年(1180年)8月の頼朝による反平家の挙兵時、大番役で当主政光が在京中であったため、寒河尼は10月に当時14歳の鍾愛の末子(朝光)を伴って武蔵国隅田宿の頼朝の宿所を訪れた。尼は頼朝と往事を語り、末子を側近として奉公させたいと願い、頼朝は自ら烏帽子親となって元服させ、末子は小山七郎宗朝と名乗った(のちに朝光に改名)。夫の不在中は妻がその権限を取り仕切るのが慣習であり、この尼の行動によって下野国最大の武士団小山氏が頼朝方についたことになり、このことは北坂東の武士団の去就に決定的な影響を与えたものと見られる。寿永2年(1183年)2月、小山氏の参戦により、頼朝方は野木宮合戦で勝利する。

文治3年(1187年)12月、寒河尼は「女性たりといえども、大功あるによる也」として下野国寒川郡ならびに網戸郷地頭職に任ぜられ、女地頭となった。両地域は小山に隣接しているものの、これ以前に小山氏が支配していたことを裏付ける証拠がないことと単なる所領安堵では「大功」に相応しくないことから、新恩による所領であったと考えられている[1]

安貞2年(1228年)91歳で永眠。墓所は称念寺(小山市網戸)[1]

脚注編集

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  1. ^ a b c 『郷土史事典 栃木県』

参考文献編集

  • 小山市教育委員会文化振興課 『おやま百景ガイドフック-Point of interest in OYAMA guide book』 小山市、2004年5月15日。
  • 野口実 『源氏と板東武士』 吉川弘文館、2007年。
  • 関幸彦福田豊彦編著 『源平合戦事典』 吉川弘文館、2006年。
  • 松本一夫 『下野中世史の世界』 岩田書院、2010年。
  • 『郷土史事典 栃木県』新川武紀昌平社、1978年4月、p047-p048。

関連項目編集