小田原空襲(おだわらくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年昭和20年)にアメリカ軍により行われた神奈川県小田原市に対する空襲である。小田原は地域一帯を焼き払う絨毯爆撃を受けることはなかったが、アメリカ軍が攻撃目標とした180都市のうちの96番目に指定されており[5][6][注 1]、終戦までにP-51 マスタングなどの戦闘機による数度の攻撃を受け、同年7月17日8月15日にはB-29が予定計画外に投棄したとみられる焼夷弾による被害を受けた。

小田原空襲

小田原市の位置
戦争第二次世界大戦 日本本土空襲
年月日1945年昭和20年)8月15日
場所神奈川県小田原市
結果:-
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
戦力
不明 ボーイングB-29、1機[1][2][3]
損害
死者 12人[3][4](48人とする説もある[4]
焼失家屋 420戸[3][4]
不明

経緯編集

7月17日の空襲編集

1945年昭和20年)7月16日23時32分から翌7月17日1時12分にかけて近隣の平塚市アメリカ軍第20航空軍所属の第314航空団による空襲を受けたが(平塚空襲[9][10]、小田原市内でも空襲があり早川地区の国有鉄道早川駅周辺で3人、多古地区で1人の合計4人が死亡した[10]。第314航空団は平塚を空襲後に左旋回し足柄上郡松田町のポイントから伊豆半島の最南端に位置する石廊崎のポイントを経由して基地へ帰還するように定められており[9][10]、松田と石廊崎を結ぶ直線上に近い小田原市内に余剰爆弾を投下したものと推測されている[10]。なお、アメリカ軍の報告書には小田原市内に関する記録は残されていない[10][11]

8月3日の空襲編集

同日、アメリカ軍のP-51 マスタングが小田原市東部に飛来、足柄下郡下曽我村にある国有鉄道下曽我駅機銃掃射を行ったが、運転事務室にいた同駅助役が負傷したのみで死者はなかった[12]

また、市内扇町にある富士写真フイルム小田原工場も同機による攻撃を受けたが被害はなかった[13][14]。なお、同社は1944年(昭和19年)4月に軍需省から軍需工場の指定を受けており、小田原工場は航空写真機の部品や防弾ガラス風船爆弾用の油などの製造を行っていたが、1945年(昭和20年)1月に防諜上の理由から会社名の使用が禁止されたため「皇国二〇二一工場」と改称された[13]

8月5日の空襲編集

同日11時頃、アメリカ軍のP-51 マスタングが足柄下郡国府津町にある国有鉄道国府津駅に飛来して機銃掃射を行い、駅舎が全焼、人員不足のため雇用された女子駅員2人が死亡した[15]

正午頃、アメリカ軍のP-51 マスタングが国有鉄道下曽我駅付近に飛来して機銃掃射を行い、同駅に停車中の貨物列車の機関車が運転不能、駅舎や下曽我の集落が焼失、駅員3人と住民3人の合計6人が死亡した[12]

時間は不明だが、富士写真フイルム小田原工場では同機の攻撃を受け通勤途中の女性従業員1人が死亡した[14](『南足柄市史』では2人としている[13])。

8月7日の伝単投下編集

アメリカ軍の報告書によれば同日11時25分、一機のB-29が小田原市上空に飛来し、高度30,000フィートの地点から一般市民に対し事前に空襲を警告し降伏を勧告するビラ(伝単)が詰め込まれた爆弾を投下、後に気象データを得て17時33分にグアム島の基地へ帰還したと記録されている[16]

8月13日の空襲編集

 
蓮上院土塁に刻まれた爆弾の着弾跡。

同日8時頃、小田原市新玉国民学校(後の小田原市立新玉小学校)が艦載機の爆撃を受け校舎の一部が倒壊[17]、教員1人と用務員2人の合計3人が死亡した[18]。この爆撃の際、同小学校に隣接する蓮上院の裏手にある蓮上院土塁(小田原城の遺構の一つ)にも着弾し、大きく損壊した[19]

8時30分[20]、市内井細田(後の扇町)にある湯浅蓄電池製造小田原工場に艦載機が飛来して爆撃と機銃掃射を敢行、同工場内の防空壕の一つが爆弾の直撃を受け、退避していた従業員13人が死亡した[13]。なお、同社はバッテリーを扱う会社で、1941年(昭和16年)から日本海軍指定の軍需工場となっていた[13]

9時頃、駿豆鉄道井細田駅五百羅漢駅の中間に位置する多古地区が同機による爆撃を受け、防空壕に退避していた付近住民13人が死亡、さらに機銃掃射を受けた1人の合計14人が死亡した[21]

時間は不明だが、富士写真フイルム小田原工場も機銃掃射と爆撃を受け、光学ガラス溶融工場が損壊し、研究所1棟が炎上、待避中の男性従業員2人が死亡した[14]

8月15日の空襲編集

 
1945年8月15日の空襲後の市街地。写真は市内万年町3丁目付近を写したもの。

同日1時頃[22][23][24][注 2]、一機のB-29が小田原上空に飛来して照明弾の投下に続いて[29][30]、多古・井細田方面から宮小路方面にかけて焼夷弾を投下[4]。幸町1丁目と4丁目、万年3丁目と4丁目(後の浜町1丁目と3丁目、本町2丁目と3丁目)の402戸が被災し、12人が死亡した[3][4]

12人死亡とする記録は1979年(昭和54年)に発足した「戦時下の小田原地方を記録する会」の聞き取り調査によるもので[4]1946年(昭和21年)1月に第一復員省が作成した 「全国主要都市戦災概要図」の第二次調査戦災被害状況概見や、建設省計画局区画整理課が作成した「戦災都市の指定を受けた都市の罹災状況」では48人死亡としている[4]。なお、2001年平成13年)に出版された『小田原市史』は「戦時下の小田原地方を記録する会」の記録を採用している[31]

関東地方では、同日0時8分から2時15分にかけて群馬県伊勢崎市がアメリカ軍第20航空軍所属の第73航空団および第314航空団による空襲(伊勢崎空襲)、同日0時23分から1時39分にかけて埼玉県熊谷市第313航空団および第314航空団による空襲(熊谷空襲)を受けている[28]。そのため、小田原市街に対する空襲は、伊勢崎または熊谷を攻撃した部隊が作戦終了後、帰投路に定められた静岡県賀茂郡下田町付近のポイントを通過するまでの間に、余剰爆弾を投棄したものと推測されているが[3][28]、『小田原市史』は「第二次世界大戦の特徴のひとつである無差別爆撃として、歴史の中で位置付ける必要がある」としている[32]。なお、アメリカ軍の報告書には8月15日の小田原市に対する空襲に関する記録は残されていない[3][28][33][34]

その他編集

神奈川県内の市部では、この他横浜川崎平塚横須賀藤沢鎌倉などが空襲被害に遭っている。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 専門家の奥住喜重によれば、この180都市は日本が1940年(昭和15年)に行った国勢調査の人口順配列に拠ったもので [7]、作戦の優先順位を示したものではない。また、180都市の表は焼夷弾による空襲の目的のためのものであり、艦載機による空襲や艦砲射撃とは関係がない[8]
  2. ^ 『小田原市史』は1時から2時頃[25]総務省は8月14日夜半に焼夷弾8発が投下された後、一旦鎮火したが、8月15日1時に再び出火としている[2]。なお、体験者の証言や記録の多くは「14日深夜」「15日未明」「15日0時30分から3時[26]」といった具合に時間をはっきりと記したものは少ない[27][28]

出典編集

  1. ^ 井上 2002、46頁
  2. ^ a b 小田原空襲の碑”. 一般戦災死没者の追悼. 総務省. 2015年8月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 企画特集 1【かながわの戦後】空襲の記憶 (9)”. 朝日新聞デジタル. 2015年8月8日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年8月17日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 井上 2002、94-97頁
  5. ^ 小田原市 2001、571-572頁
  6. ^ 井上 2002、72-74頁
  7. ^ 奥住 2006、104頁
  8. ^ 奥住 2006、109頁
  9. ^ a b 空襲体験者が語る、湘南地域を襲った空襲被害とは?”. はまれぽ.com (2013年8月14日). 2015年8月17日閲覧。
  10. ^ a b c d e 井上 2002、78-80頁
  11. ^ Records of the U.S. Strategic Bombing Survey (1945年). “Nos. 271 through 274, Numazu, Oita, Kuwana and Hiratsuka, 16-17 July 1945. Report No. 2-b(63), USSBS Index; Section 7”. 国立国会図書館. 2015年8月29日閲覧。
  12. ^ a b 井上 2002、48-49頁
  13. ^ a b c d e 井上 2002、59-60頁
  14. ^ a b c 日米開戦 ― 太平洋戦争下の対応”. 富士フイルムのあゆみ. 富士フイルム. 2015年8月17日閲覧。
  15. ^ 井上 2002、56-57頁
  16. ^ 井上 2002、80-81頁
  17. ^ 本校の沿革”. 学校紹介. 小田原市立新玉小学校. 2015年8月17日閲覧。
  18. ^ 井上 2002、66-69頁
  19. ^ 総構の遺構”. 小田原城とその周辺. 小田原市公式サイト. 2015年8月17日閲覧。
  20. ^ 小田原市 2001、573頁
  21. ^ 井上 2002、63-65頁
  22. ^ 井上 2002、11頁
  23. ^ 井上 2002、87頁
  24. ^ 小田原空襲:玉音放送半日前 81歳元教諭「悲劇伝承を」”. 毎日新聞. 2015年8月19日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年8月17日閲覧。
  25. ^ 小田原市 2001、565頁
  26. ^ 井上 2002、46頁
  27. ^ 井上 2002、85頁
  28. ^ a b c d 奥住 2006、138-140頁
  29. ^ 井上 2002、89-90頁
  30. ^ 小田原市 2001、566頁
  31. ^ 小田原市 2001、567頁
  32. ^ 小田原市 2001、568頁
  33. ^ 井上 2002、82-83頁
  34. ^ Records of the U.S. Strategic Bombing Survey (1945年). “Nos. 325 through 330, Hikari Naval Arsenal, Osaka Army Arsenal, Marifu railroad yards, Nippon oil refinery, Kumagaya and Isesaki, 14-15 August 1945. Report No. 2-b(74), USSBS Index; Section 7”. 国立国会図書館. 2015年8月29日閲覧。

参考文献編集

  • 井上弘『小田原空襲』夢工房、2002年。ISBN 978-4946513749
  • 奥住喜重『B-29 64都市を焼く 1944年11月より1945年8月15日まで』揺籃社、2006年。ISBN 978-4897082356
  • 小田原市 編『小田原市史 通史編 近現代』小田原市、2001年。