山本悌二郎
山本 悌二郎(やまもと ていじろう、明治3年1月10日(1870年2月10日) - 昭和12年(1937年)12月14日)は、日本の政治家、実業家。農林大臣。外務大臣の有田八郎は弟。号は二峯。
山本 悌二郎 やまもと ていじろう | |
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生年月日 | 明治3年1月10日(1870年2月10日) |
出生地 | 新潟県佐渡郡(現・佐渡市) |
没年月日 | 1937年12月14日(67歳没) |
出身校 | 獨逸学協会学校 |
所属政党 | 立憲政友会 |
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内閣 | 犬養内閣 |
在任期間 | 1931年12月13日 - 1932年5月26日 |
内閣 | 田中義一内閣 |
在任期間 | 1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
選挙区 | 旧新潟1区 |
当選回数 | 11回 |
在任期間 | 1904年3月2日 - 1937年4月30日 |
来歴・人物編集
新潟県佐渡郡(現・佐渡市)に、漢方医・山本桂の二男として生まれる。明治15年(1882年)に上京し、一時期二松学舎に在籍した後、獨逸学協会学校(現・獨協中学・高等学校)に転校しドイツ語を学ぶ。明治19年(1886年)に同校を卒業後、宮内省給費生としてドイツに留学し、経済学・農芸化学を学ぶ。明治27年(1894年)帰国後は宮内省御料局嘱託、第二高等学校教授、日本勧業銀行鑑定課長を経て、明治33年(1900年)台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)設立に参画し常務取締役支配人となる。大正10年(1921年)社長に就任。
明治37年(1904年)、第9回衆議院議員総選挙に立憲政友会から旧新潟1区にて立候補し当選する。以後当選11回。政友会内で重鎮として重きをなし、10名程度の派閥を率いていた。昭和2年(1927年)に田中義一内閣で、また昭和6年(1931年)に犬養内閣で、それぞれ農林大臣として入閣する。2度目の入閣のときに農相秘書官を務めたのが、政界デビュー直前の河野一郎である。
国粋主義的な政治思想の持ち主で、晩年には国体明徴運動を熱心に推進していた。また大東文化協会副会頭、第五代会頭も務めた。
昭和12年(1937年)12月14日、大東文化協会玄関で倒れ、脳溢血のため死去、満67歳。
昭和の初期、佐渡の旧家にあった大島本源氏物語の売却に際し、前田米蔵、山東誠二郎とともに田中とみなる女性に紹介状を書き、売却を支援したことが知られる[1]。
栄典編集
脚注編集
- ^ http://genjimonogatari.blog79.fc2.com/blog-entry-2696.html 大島本『源氏物語』と佐渡・紀州人脈
- ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。
- ^ 『官報』第1621号「叙任及辞令」1932年5月28日。
- ^ 『官報』第3290号「叙任及辞令」1937年12月18日。
関連項目編集
外部リンク編集
公職 | ||
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先代 町田忠治 町田忠治 |
農林大臣 第6代:1927年 - 1929年 第9代:1931年 - 1932年 |
次代 町田忠治 後藤文夫 |
議会 | ||
先代 東武 |
衆議院予算委員長 1932年 - 1933年 |
次代 野田卯太郎 |