山本 泰照(やまもと やすてる、1941年昭和16年〉8月27日 - )は、岡山県出身の元競艇選手

山本泰照
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県
生年月日 (1941-08-27) 1941年8月27日(82歳)
選手情報
所属 岡山支部
登録番号 1845
登録期 16期
特徴 自在
選手実績
デビュー日 1964年
選手引退日 1998年12月20日
記念優勝 0回
SG優勝 1回
GI/PGI優勝 0回
通算優勝 58回
通算勝率 6.35
通算勝利 2001勝
主要獲得タイトル
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弟の山本尚甫も元ボートレーサー。山本寛久の叔父。

来歴 編集

1964年登録の16期生としてデビューし[1]田中理と同期である。1976年末の宮島で3回目の優勝を果たし、1977年には下関で行われた第12回鳳凰賞競走に出場[2]。宮島の優勝戦は逆光で他の選手がアジャストし、スリットで1艇身抜け出して優勝。鳳凰賞はスタートで飛び出した中道善博小林嗣政が飛びつき、2マークで古賀武日児と中道が大競りしたところを山本が差し抜けた[2]。中道はフライングで失格となり、山本が1マークで大競り、2マークも大競りという展開を突いて優勝[2]。切れのあるセンター戦[3]で自身唯一の四大特別競走制覇を果たし、優勝賞金は現金で800万円もあり、選手になって初めて手にする大金となった[2]。同僚の武田章が「タイショウさん[4]、皆の弁当代と代を出しない。警護して帰ってやるから」と言ってくれたため、帰りのこだまの車内では3人掛けシートを向かい合わせにして山本を囲むように座ってもらい、新倉敷からは万谷章林通に自宅まで送ってもらった[2]。自宅に着くと、今度は「どこにお金を隠すか」に悩む。金庫は無く、田圃の中の一軒家で、何かあったらと弟の尚甫夫婦が来てくれた[2]。結局、箪笥の後ろに100万円ずつの束を投げ入れ、翌日銀行に預けた[2]。鳳凰賞の後のレースで工具箱を開けると、いつも使わないホット系で出足型の9番のプラグが入っていた[2]。コールド系で伸び型の10番のプラグと間違えて買ってしまい、北原友次から「(優勝戦前に)新品のプラグに換えて焼いておけ」と言われて買った新品のプラグが10番ではなく9番であり、9番が強烈なターン回りを引き出した[2]。連覇が懸かった1978年の第13回鳳凰賞競走(丸亀)でも優出したが、北原の「グランドスラム」達成を許し5着に終わる。その後も「鳳凰賞とダービーにはいくらでも出ることができたけど、笹川賞MB記念は強い選手が多すぎて出してもらえない」と言われたほどの選手層を誇った強豪・岡山勢[2]を代表するレーサーの一人として活躍するが、レース中にに負った大怪我で成績が思うように残せなくなる[1]

1997年9月15日一般戦「高虎杯」で村田瑞穂柏野幸二と共に優出したのが最後の優出となり、5号艇6コース進入で5着[5]に終わった。1998年11月3日の丸亀一般戦「七尾市親善都市記念フレンドリーカップ」最終日3Rで通算2000勝(4号艇5コースから差し切り)[6]を達成し、ひとつの区切りがついたもあり、引退を決意[1]。引退のことは夫人だけに告白し、競艇関係者や仲間には言わなかった[1]同15日三国「一般競走」最終日1Rで5号艇ながらインから逃げ切りを決め、最後の勝利となる2001勝目[7]を挙げた。引退シリーズとなった桐生の年末開催一般戦では、競技委員長に全てを言い、競技委員長から選手代表の吉田稔へと伝わり、最終日には参加していた選手から餞別が送られ、山本の家族が桐生まで来て山本最後のレースを観戦した[1]。最後の出走は12月20日1Rとなり、5号艇4コース進入で結果は5着であった[8]

引退後はJLC専属解説者へ転進し、熱心で分かりやすいと好評である[3]

2007年、ボートレース殿堂マイスター入りを果たす[3]

獲得タイトル 編集

  • 1977年 - 第12回鳳凰賞競走(下関)

脚注 編集

関連項目 編集