山梨共修社(やまなしきょうしゅうしゃ)は、公益財団法人山梨共修社が運営する、東京都文京区にある山梨県出身の大学生のための男子寮。

山梨共修社(2024年4月撮影)

沿革[1] 編集

1902年明治35年)2月、東京帝国大学法科大学生満田寛一、第一高等学校生徒田辺治通、後の医学博士八巻良三の三人が 『山梨(甲斐)は幕府直轄地であったことから何かと纏まりが悪く、他県にはある旧藩邸跡地等を活用しての学生寄宿舎の如きもなく、設立の試みも物に為らなかった』 とのことから、三人で設立運動を行うべく合意に達し、八巻九万(第二代山梨県会議長、第一回衆議員選挙による代議士を歴任)に相談し同人を発起人とし、賃借していた下宿の下宿屋を買い取り、山梨共修社(命名は八巻九万)を創立。            

その際の設立小委員会メンバーは、八巻九萬・佐竹作太郎根津嘉一郎の三名。第一期の寮生は25名。

1913年大正2年)7月、文部大臣の許可を得て財団法人となる。

1916年(大正5年)2月、大正4年より着手の改築拡張案実現に向け、山梨県内外の有力者からの寄付を募り土地800坪を購入、翌大正6年5月52名収容の寮舎が竣工し移設

1945年昭和20年)5月、大正6年建設の寮舎が東京空襲(山の手空襲)にて焼失

1951年(昭和26年)、在京県人会連合会会長広瀬久忠を中心に再興運動が行われ、山梨日日新聞社社長野口二郎、山梨県知事天野久への呼びかけをきっかけに再建に着手。

1952年(昭和27年)、東京都区画整理委員会よりの代替地に新たな寮舎(内藤多仲博士設計)を建設着工、翌29年12月に竣工し移動。この時の寮生は26名。

1957年(昭和32年)、甲府出身の実業家坂本正三郎の米国視察の折「教育の大切の事を深く感得し、共修社の増設を一人で行う」との決意からの寄付により、第二寮舎「坂本寮」が竣工し、寮生定員が51名となる。(これを記念した坂本翁像が寮に残されている)

1964年(昭和39年)、共修社社報「山梨の花」が再刊(年一回発刊)され、その第一号に社友前嶋信次が在寮中に作詞した「山梨共修社寮歌」が掲載。その後休刊となり現在に至る。

1983年(昭和58年)3月、戦後建築の木造二階建て寮舎及び坂本寮が老朽化のため昭和57年開催理事会で、新たに鉄筋コンクリート四階建ての寮舎(50名収容)の建築が決議され着工し当年12月に竣工。

1986年(昭和61年)11月、創立85周年記念事業として「社友名簿」の刊行を実施。

2002年平成14年)、創立100周年記念式典を挙行。記念事業として、式典の挙行、寮舎内外のリニューアル工事、記念誌の刊行を実施。

2012年(平成24年)、創立110周年記念式典を挙行。

2013年(平成25年)4月、公益財団法人(東京都教育委員会認可)としての登記を行う

2022年令和4年)11月、創立120周年記念誌発刊

主な社友(卒寮生・順不同) 編集

政官界等 編集

学界 編集

財界等 編集

山梨共修社寮歌 編集

 「盆地十里(作詞:前嶋信次)」

一、盆地十里に花は散り 西の山辺に春逝けば 胸傷つきて 帰り来し 同じ思いの集いかな

二、山は青葉にうたう国 野は青草におどる国 ああ夏されば今もなお 燃ゆる原始の陽の色よ

三、秋にさびれし梧桐の 梢に夕日うつろえば ああ甲斐の国ふるさとの おとずれ恋うる若き身や

四、廃兵院の冬木立 あおざめ果てし細月や 来たれ五十の胸の火に 凍りし涙とかせ友

脚注 編集

  1. ^ 山梨共修社100年史

外部リンク 編集