東宝

日本の東京都千代田区にある映画会社、興行会社

東宝株式会社(とうほう、: TOHO CO., LTD.[3])は、大阪阪急阪神ホールディングス持分法適用会社で、映画演劇の製作配給・興行不動産業を行う日本企業

東宝株式会社
TOHO CO., LTD.
種類 株式会社
機関設計 監査等委員会設置会社[1]
市場情報
東証プライム 9602
1949年5月16日上場
福証 9602
1949年7月1日上場
本社所在地 日本の旗 日本
100-8415
東京都千代田区有楽町一丁目2番2号
東宝日比谷ビル10階から12階
北緯35度40分23.0秒 東経139度45分35.8秒 / 北緯35.673056度 東経139.759944度 / 35.673056; 139.759944座標: 北緯35度40分23.0秒 東経139度45分35.8秒 / 北緯35.673056度 東経139.759944度 / 35.673056; 139.759944
設立 1932年昭和7年)8月12日
(株式会社東京宝塚劇場
業種 情報・通信業
法人番号 3010001008708 ウィキデータを編集
事業内容
  • 映画事業
  • 映像事業
  • 演劇事業
  • 不動産事業
代表者 代表取締役会長 島谷能成
代表取締役社長 松岡宏泰
資本金 103億5,584万7788円
(2021年2月28日時点)[2]
発行済株式総数 1億8,649万0633株
(2021年2月28日時点)[2]
売上高
  • 連結: 1,919億4,800万円
  • 単独: 1,047億9,300万円
  • (2021年2月期)[2]
営業利益
  • 連結: 224億4,700万円
  • 単独: 202億1,600万円
  • (2021年2月期)[2]
経常利益
  • 連結: 241億9,500万円
  • 単独: 247億7,200万円
  • (2021年2月期)[2]
純利益
  • 連結: 160億100万円
  • 単独: 180億6,600万円
  • (2021年2月期)[2]
純資産
  • 連結: 3,890億1,100万円
  • 単独: 2,783億2,000万円
  • (2021年2月28日時点)[2]
総資産
  • 連結: 4,738億400万円
  • 単独: 3,982億9,300万円
  • (2021年2月28日時点)[2]
従業員数 連結: 3,305人
単独: 357人
(2021年2月28日時点)[2]
決算期 2月末日
会計監査人 有限責任監査法人トーマツ[2]
主要株主
主要子会社
関係する人物
外部リンク www.toho.co.jp ウィキデータを編集
特記事項:1943年12月に東宝株式会社へ商号変更。
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本社は東京都千代田区有楽町一丁目2番2号東宝日比谷ビル。日本の映画会社「御三家」のうち、連結売上高は最大規模。日経平均株価の構成銘柄の一つ[4]

2022年現在、2つの直営演劇劇場(帝国劇場・新館シアタークリエ)を保有する。阪急阪神ホールディングス(阪急電鉄阪神電気鉄道)、エイチ・ツー・オー リテイリング阪急百貨店阪神百貨店)とともに、阪急阪神東宝グループの中核企業である(旧:阪急東宝グループ)。

他の阪急阪神東宝グループ同様に、三和グループ(旧三和銀行系)のメンバーであるが、阪急電鉄と異なり三水会には参加せず、みどり会のみに参加している[5]

歴史 編集

発足と急成長 編集

1932年8月に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の小林一三によって、演劇、映画の興行を主たる目的として株式会社東京宝塚劇場を設立。1934年東京宝塚劇場を開場の後、有楽座、日本劇場帝国劇場を所有し、日比谷一帯を傘下に納め、浅草を手中に収める松竹とともに、東京の興行界を二分するに至る。

一方、会社設立前年に創設された、トーキーシステムの開発を行う写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)は、1937年関連会社JOと合併し、東宝映画となる。1943年8月30日、東宝映画を合併し、映画の製作・配給・興行および演劇興行の一貫経営に乗り出し、同年12月10日に社名を東宝と改めた[6][7][注釈 1]。PCLには大日本麦酒なども出資しており[注釈 2]、東宝は発足当初から、従来の市井の興行師からスタートした映画会社とは一線を画する、財界肝いりの近代企業として期待と注目、そして反発を集めた。なお、その名前の由来は「東京宝塚」の略である。

1940年10月1日、東宝系の全劇団は東宝国民演劇団移動隊に発展的解消。古川ロッパエノケン、東宝舞踏隊、東宝名人会などがそれぞれ移動演劇班を結成して、地方の農山漁村や工場にも巡回することとなった。宝塚歌劇団は宝塚音楽奉仕隊として健全な娯楽を提供するとともに、忙しい時には勤労奉仕も行う体制を採った[8]。第二次世界大戦に突入すると東京宝塚劇場と日本劇場は風船爆弾工場となり、戦後は東京宝塚劇場が進駐軍専用のアーニー・パイル劇場と改名され、10年間観客としての日本人が立入禁止となるなど、歴史の証人を演ずることになる。

林長二郎事件 編集

東宝は設立時、天下の二枚目こと松竹林長二郎をはじめ、多くのスターを驚くほどの高給で他社から引き抜いた。

1937年11月12日、長二郎が、左顔面を耳下から鼻の下にかけて斜めに切りつけられ、骨膜に達する重傷を負う。犯人のヤクザ松本常保[注釈 3]は、同年秋、長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、松竹系の新興キネマ京都撮影所長の永田雅一らに教唆され、犯行におよんだものと判明した。

松本はこの事件で実刑を受けたが、後に刊行した自伝「みなさんありがとう」において「犯行に荷担していない」と表明している。事件後、長二郎はこの名を松竹に返し、本名の長谷川一夫を名乗るようになった。

プロデューサーシステム 編集

東宝の資本とPCLの技術の上に映画の興行面で変化をもたらしたのは、製作における予算と人的資源の管理を行うプロデューサー・システムの本格的導入であり、これをもたらしたのがアメリカ帰りの森岩雄とされる[9][10]。松竹の城戸四郎、日活の根岸寛一と並び称される森だが、この分野における足跡は大きい。

東宝はPCL時代より民主的な社風で知られ、監督や大スターでも個室がなく、大物に対しても「さん」付けや「ちゃん」付けであった。巨匠監督も部下の助監督や名もない俳優を「さん」付けや「ちゃん」付けで呼んだ。また東宝は他の映画会社のヤクザっぽい親方子方気質や歌舞伎の因習を引きずった封建的な体質を公然と批判し、他社のようにスタッフや俳優を縁故採用に頼るのではなく、公募を戦前より行い優秀な人材を得た。しかし獲得した優秀な人材は戦後の東宝争議の中心メンバーとなったため、後に縁故採用を強化し権力に逆らわない人材を入れる傾向に変わっていった。

東宝争議とその後の混乱 編集

1946年から1950年にかけて経営者と労働組合の対立が激化し、そんな最中、1948年3月4日に本社を東宝文芸ビルに移転。だが同年6月1日には撮影所を占拠した組合員を排除するため、警視庁予備隊、果ては占領軍戦車戦闘機まで出動する騒ぎになる。これが「来なかったのは軍艦だけ」と言われた東宝争議である[9][11]

この間、大河内伝次郎、長谷川一夫、入江たか子山田五十鈴藤田進黒川弥太郎原節子高峰秀子山根寿子花井蘭子の十大スターが結成した十人の旗の会と、反左翼の渡辺邦男をはじめとする有名監督の大半は、1948年4月26日に第三組合によって設立された新東宝(4月26日には系列会社・国際放映も設立)で活動することになる[11]。そのため東宝は再建不能と言われ、1949年3月15日に映画制作は新東宝に任せ、東宝は配給部門のみ受け持つ方針が真剣に協議されたこともあった。

大スターや大監督がごっそり辞めたことで、入社したての三船敏郎らがすぐに主役として抜擢され、若い監督も活躍の場を得やすい状況になった。残留組イコール左翼的という単純な色分けはできないが、共産党員の多くは放逐され、新東宝はまもなく東宝と絶縁して独立会社となったため、比較的リベラルだが政治には深入りしなかった人材が多く残ることになる。新東宝は独立後、文芸映画路線が不振で経営がすぐに悪化、新社長に迎えた大蔵貢の低予算通俗映画路線で一時的に持ち直したものの、1961年倒産。市川崑など一部のスターや監督はそれより遥か以前、完全独立の前後に東宝に復帰していた[注釈 4]

日本映画黄金時代 編集

1950年代に迎えた日本映画の黄金時代に際し、1957年からは「東宝スコープ」を採用し、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』などの黒澤明作品や『ゴジラ』や『モスラ』などの円谷英二による特撮作品を始めとする諸作品によって隆盛を極め[12]、映画の斜陽化が始まった1960年代にもクレージー映画若大将シリーズでヒットを飛ばす。また、社長シリーズ駅前シリーズ[注釈 5]など安定したプログラムピクチャーの路線を持っていたことも強みであった。財界優良企業らしく健全な市民色、モダニズムを鮮明な作品カラーとし、日本映画が暴力、猟奇、エロティシズムに傾斜していく中でも東宝はそれらの路線とは一線を画し、距離を置いた。上記のシリーズ物が定着する前は現代アクション物も得意とし、後年も『殺人狂時代』、『100発100中』などの異色作に名残を残す。これらは興行的には伸びなかったが、その後の再上映でカルト的な人気を誇った。

1959年にはニッポン放送文化放送、松竹、大映と共にフジテレビを開局。テレビにも本格的に進出する。

映画製作部門の大幅縮小 編集

1960年代から映画は斜陽産業と言われるようになり、東宝も顕著な観客減少に悩んでいたが、大規模な量産体制を他社と共に保っていた。しかしカラーテレビの普及が本格化した1970年代になると観客減少はさらに深刻な状況となり、大映は倒産、日活ポルノ路線に転向。東宝もこの危機を脱するため、前述の東宝四大喜劇シリーズを全て終了するなど1972年に本社での映画製作を停止し五社協定が終焉する。製作部門を分離独立させて発足した「東宝映像」(現在の東宝映像美術、設立1971年、社長田中友幸[13]と傍系会社の「東京映画」(のちの東京映画新社、設立1983年、社長川上流一)、「東宝映画」(設立1971年、社長藤本真澄)、新たに設立した製作会社「芸苑社」(設立1972年、社長佐藤一郎)、「青灯社」(社長堀場伸世)を5つの核とした製作体制に切り替えた[14]。しかし、東宝映画が年に数本、芸苑社と東宝映像が年1、2本しか稼働せず、外部からの買取作品・委託引受け作品の配給に力を入れ、自社の興行網を維持する形に転換する。

本社での映画製作を停止した後は、映画配給や不動産部門、芸能事務所である東宝芸能へ軸足を移しながら経営の合理化を進めた。ただし阪急グループとしてのイメージや、駅から近い一等地に座席数の多い一流映画館を多く持つため、同業他社のようなポルノ映画ヤクザ映画の製作は行わず、そのような外部製作品を配給することも少なかった。この時期、「東宝の映画館なら家族連れやアベックでも安心」といったイメージを死守したことは、後年まで続く東宝繁栄の伏線となった。1969年 - 1978年東宝チャンピオンまつりとして子供向け映画を上映した。しかし予算的には非常にタイトとなり、評価の高い山本迪夫監督の怪奇映画の多くは2本同撮で作られており、ゴジラシリーズでは音楽や着ぐるみの使い回しが多用されるようになった。

映画製作本数が減った分、テレビ部の奮闘が目立つようになり、『太陽にほえろ!』、『俺たちは天使だ!』などがヒット。テレビ作品の収録は70年代までは砧撮影所は使用せずに国際放映円谷プロを制作協力のクレジットで孫受け発注した。スタジオを持たない円谷プロの場合は東京美術センターなどの傍系スタジオを使用した。東宝配給の劇場映画も実際は大映京都撮影所勝プロダクション作品など)や日活撮影所石原プロモーションホリプロ作品など)で製作するものが増えた[注釈 6]ため、砧撮影所は急速に稼働率が低下、人員も離散した。1977年には、ベテランの映画監督である岡本喜八堀川弘通両監督を解雇した。

それでも1980年代半ばまでは、東宝シンデレラコンテスト出身者や東宝芸能に所属し人気アイドルとなった斉藤由貴沢口靖子主演のアイドル映画を東宝映画が製作するなど、独立プロダクション程度の活動は継続。この時期からはアニメーションの製作にも関与するようになる。

この後バブル景気となり、日劇渋谷東宝会館日比谷映画劇場有楽座梅田劇場、北野劇場などが建て替えられ映画興業以外もおこなう複合施設となり、資産価値を増加させた。

現在 編集

1990年代に入ると、自社(株式会社東宝映画)での邦画製作は「ゴジラ シリーズ」を除き行われなくなり、主にテレビ局[注釈 7]や外部プロダクションが製作した映画を配給し、成功を収めた。

2000年以降は、ワーナー・マイカル・シネマズが優位に立っていたシネコン市場に本格的に参入し、2003年のヴァージン・シネマズ・ジャパン株式会社(現・TOHOシネマズ株式会社)の買収で、グループ企業のスクリーン数では第1位を誇っていた[注釈 8]

その後も日本映画界や興行界に不動の地歩を占め続け、現在に至っている。製作会社(テレビ局が多い)も大予算をかけた自信作は興行に強い東宝へ配給委託し、それがまた数字を積み上げるという好循環が重なった結果、平成期以降は一人勝ち状態が定着、21世紀にはさらに独走の幅を広げた。1980年代前半までライバルとして競り合ってきた東映や松竹[注釈 9]とも、今では大差を出している。

また、かつて映画館用地として購入した全国の一等地の物件の賃貸を中心とする不動産事業も、営業利益のうち約4割を占め、地味ではあるが、業績を下支えする安定した重要な事業になっている[15]

なお同社は大手映画会社としては唯一撮影所出身の社長が存在しなかったが[注釈 10]、2002年に初のプロデューサー経験者[注釈 11]として高井英幸が社長に就任した。

近年は、東宝本体で製作委員会に参加するなど、映画製作において積極的な姿勢をとっている。また砧撮影所の空洞化や技術伝承の中断に危機感を持ってレンタル展開を積極化。単独出資での「東宝映画」はほぼ絶えたものの、製作参加・配給・撮影所供給といった形で東宝カラーを打ち出し、守る方向が試されつつある。

2013年には『アニメ事業室』を新設、同時に自社音楽レーベルも立ち上げ、自社企画でのアニメ事業の強化に乗り出している[16]

2020年12月1日、東宝映画と、東宝スタジオを管理する「東宝スタジオサービス」を統合し「TOHOスタジオ株式会社」を設立。当該会社で撮影所管理とプロダクションの両方を行い、制作準備から撮影・仕上げまでをワンストップで提供できる体制となる。

2023年12月6日、子会社である東京楽天地株式公開買付け(TOB)を行うことを発表した。同月7日から2024年1月24日まで実施する。TOB成立後に残りの株式についても取得し、同社を完全子会社化する予定[17]

主要映画作品 編集

主要テレビ作品 編集

1960年代 編集

1970年代 編集

1980年代 編集

1990年代 編集

2000年代 編集

2010年代 編集

関連人物 編集

歴代会長 編集

歴代社長 編集

  • 初代:1943年12月10日 - 1947年3月9日:大澤善夫
  • 2代目:1947年3月10日 - 12月22日:田辺加多丸
  • 3代目:1947年12月26日 - 1949年9月25日:渡辺銕蔵
  • 4代目:1949年9月26日 - 1950年9月27日:米本卯吉
  • 5代目:1950年9月28日 - 1951年9月27日:小林富佐雄
  • 6代目:1951年9月28日 - 1955年9月19日:小林一三
  • 7代目:1955年9月20日 - 1957年10月1日:小林富佐雄
  • 8代目:1957年10月5日 - 1966年9月23日:清水雅
  • 9代目:1966年9月24日 - 1974年8月12日:松岡辰郎
  • 10代目:1974年8月22日 - 1977年5月24日:清水雅
  • 11代目:1977年5月25日 - 1995年5月24日:松岡功
  • 12代目:1995年5月25日 - 2002年5月22日:石田敏彦
  • 13代目:2002年5月23日 - 2011年5月25日:高井英幸
  • 14代目:2011年5月26日 - 2022年5月25日:島谷能成
  • 15代目:2022年5月26日 - :松岡宏泰

現在の役員 編集

  • 代表取締役会長:島谷能成
  • 代表取締役社長 社長執行役員:松岡宏泰
  • 取締役:太古伸幸、市川南、角和夫
  • 常勤監査等委員:緒方栄一
  • 取締役監査等委員(独立社外取締役):小林節、安藤知史、折井雅子
  • 副社長執行役員:太古伸幸
  • 専務執行役員:市川南
  • 常務執行役員:瀬田一彦、池田篤郎、大田圭二
  • 上席執行役員:池田隆之、加藤陽則、和田薫一郎、本多太郎
  • 執行役員:宇田典弘、福田明宏、吉田充孝、上田太地、植田浩史(2023年5月25日現在)

主なプロデューサー 編集

主な監督 編集

主な脚本家 編集

主な音楽家 編集

主なカメラマン 編集

主な俳優(男性) 編集

主な俳優(女性) 編集

映画館 編集

東京、名古屋、大阪、京都の主要館をかつては直営として経営していた。1990年代末期以降、本社地区は東宝サービスセンターに、関西地区は東宝ビル管理に、中部地区は中部東宝に運営を委託。2006年以降、東宝グループの映画興行をTOHOシネマズに集約することになったため、現在は東宝の直営館は存在しない。以下、東宝直営館として閉館した映画館を示す。傍系の映画興行会社が経営していた映画館は六部興行を、TOHOシネマズに移管した映画館はTOHOシネマズを参照のこと。

本社地区 編集

  • 宝塚会館東京都千代田区有楽町1-12)<1934年1月1日開館、1997年12月29日閉館>
    • 東京宝塚劇場(宝塚会館 1階)<1934年1月1日開館、1997年12月29日閉館>
    • スカラ座(宝塚会館 4階)<1940年4月16日開館、1955年7月13日改装、1997年12月29日閉館>
    • 東宝演芸場(宝塚会館 5階)<1938年9月23日開館、1955年8月1日改装、1997年12月29日閉館>
      • スカラ座の当初の名称は東宝四階劇場。東宝演芸場の当初の名称は東宝小劇場。それぞれ改装時に改称している。東京宝塚劇場は戦時中は風船爆弾の工場として使われた。戦後はGHQに接収(1945年12月24日 - 1955年1月26日)され、アーニー・パイル・シアター(1946年2月24日 - 1955年1月26日)と改称された。
  • 日劇会館東京都千代田区有楽町2-5-1)<1933年12月24日開館、1981年2月22日閉館>
    • 日本劇場(日劇会館 1階)<1933年12月24日開館、1981年2月22日閉館>
    • 日劇ミュージックホール(日劇会館 5階)<1952年3月17日開館、1981年2月22日閉館>
    • 丸の内東宝劇場(日劇会館 地下1階)<1955年2月10日開館、1981年2月22日閉館>
    • 日劇文化劇場(日劇会館 地下1階)<1935年12月30日開館、1955年8月12日改装、1981年2月22日閉館>
      • 当初日本映画劇場株式会社の所有だったが、1934年3月14日より直営興行を開始し、その後同社を吸収合併し所有権を得た。戦時中は風船爆弾の工場として使われた。丸の内東宝劇場は戦後、地下増床工事により開館した。日劇文化劇場は当初、ニュース映画専門館の第一地下劇場で戦後の改装時に日劇ニュース劇場となり、さらに改称され日劇文化劇場となった。1984年10月6日、日劇と朝日新聞旧東京本社跡地に有楽町センタービル(通称・有楽町マリオン)がオープンした。旧日劇(現在の有楽町阪急)側にTOHOシネマズ日劇がある。
  • 日比谷映画劇場(東京都千代田区有楽町1-2-2)<1934年2月1日開館、1984年10月31日閉館>
    • 閉館に先駆けて、東宝邦画系封切館「千代田劇場」は洋画ロードショー館「日比谷映画」としてリニューアルオープン(ただし「劇場」は外している)。
  • 有楽座(東京都千代田区有楽町1-2-2)<1935年6月7日開館、1984年10月31日閉館>
    • 当初演劇用劇場であったが、1951年1月1日に映画館に改装した。2005年4月9日、「ニュー東宝シネマ」が有楽座の名称を復活させリニューアルオープン。現在の館名は「TOHOシネマズ有楽座」。1987年10月3日、日比谷映画劇場と有楽座の跡地に東宝日比谷ビル(通称・日比谷シャンテ)がオープンした。
  • 東宝会館(東京都千代田区有楽町1-2-1)<1957年4月14日開館、2005年4月8日閉館>
    • 芸術座(東宝会館 4階)<1957年4月14日開館、2005年3月27日閉館>
    • 日比谷映画(東宝会館 1階)<1957年4月14日開館、2005年4月8日閉館>
    • みゆき座(初代)(東宝会館 地下)<1957年4月14日開館、2005年3月31日閉館>
      • 日比谷映画は当初、東宝邦画系封切館「千代田劇場」として開館。1984年10月31日に閉館する日比谷映画劇場の名称を引き継ぎ同年10月27日に日比谷映画に改称した。みゆき座は1971年2月1日に日本初となるノンリワインド映写機を導入している。閉館の翌4月1日、スカラ座2がみゆき座の名称を引き継いだ。現在は館名が「TOHOシネマズみゆき座」に変更されている。2007年10月、跡地に東宝シアタークリエビルがオープンした。
  • 渋谷東宝会館(東京都渋谷区道玄坂2-6-17)<1936年11月1日開館、1989年2月26日閉館>
    • 渋谷東宝劇場(渋谷東宝会館 1階)<1936年11月1日開館、1989年2月26日閉館>
    • 渋谷スカラ座(渋谷東宝会館 4階)<1989年2月26日閉館>
    • 渋谷文化劇場(渋谷東宝会館 地下)<1952年11月17日開館、1989年2月26日閉館>
      • 当初は東横映画劇場であったが、1944年9月1日に渋谷東宝劇場に改称している。渋谷文化劇場のみ1952年6月9日に設立された株式会社渋谷文化劇場が経営・運営していた。1991年7月6日、跡地に渋東シネタワーが開館した。2011年7月15日、TOHOシネマズ渋谷としてリニューアルオープンした。
  • 新宿東宝会館(東京都新宿区歌舞伎町1-19-2)<1969年10月31日開館、2008年11月7日>
    • 新宿プラザ劇場(新宿東宝会館 1階)<1969年10月31日開館、2008年11月7日>
  • ニュー東宝シネマ2(東京都千代田区有楽町2-2-3、ニユートーキヨービル地下1階)<1957年5月開館、1995年6月閉館>
    • 大映封切館「スキヤバシ映画」として開館。大映系のチェーンマスターとして機能したが、同社の経営破綻・制作配給からの撤退に伴い、東宝洋画系に転換の上1972年5月に上記の館名に変更。シネマ2の閉館の際、「ニュー東宝シネマ1(オープン当時の館名は『ニュー東宝』)」は「ニュー東宝シネマ(現在のTOHOシネマズ有楽座)」に館名を変更した。現在、跡地にはイタリアンレストラン「VINO VITA」数寄屋橋本店地下1階店とカクテルバー「BAR・B」が入店している。
  • 渋谷宝塚劇場(東京都渋谷区宇田川町21-6)<1959年7月8日開館、1997年5月30日閉館>
    • 1999年12月18日、跡地に複合商業ビル「QFRONT」がオープンし、同ビルの7階に渋谷シネフロントが開館した。
  • 上野東宝劇場(東京都台東区上野公園1-51)<1954年12月13日開館、2003年8月31日閉館>
  • 上野宝塚劇場(東京都台東区上野公園1-52)<1954年12月13日開館、2003年8月31日閉館>
    • 2005年4月、上野東宝劇場・上野宝塚劇場跡地に飲食店舗ビル「上野バンブーガーデン(正式名称:東宝上野ビル)」がオープンした。

関西地区 編集

  • 梅田会館(梅田劇場・梅田スカラ座・北野劇場・北野シネマ・梅田地下劇場)(大阪市北区角田町7-10)<1937年12月9日開館、1978年2月28日閉館>
    • 戦後間もなくはGHQに接収されていた。
  • 南街会館(南街シネプレックス - 南街劇場・南街東宝・南街シネマ・南街スカラ座・南街文化劇場)(大阪府大阪市中央区難波3-8-11)<1953年12月18日開館、2004年2月1日閉館>
    • 前身は1938年に開館した南街映画劇場。戦後に改築した。2006年9月22日、跡地に東宝南街ビルがオープンし、地下1階から7階はなんばマルイ、8階から11階はTOHOシネマズなんばが入店している。
  • 京都宝塚会館(京都宝塚劇場・京都スカラ座)(京都府京都市中京区河原町通三条下ル大黒町58)<1935年10月開館、2006年1月29日閉館>
    • 2008年4月25日、跡地に複合商業ビル「mina kyoto」がオープンした。
      前身: 京都宝塚劇場(1935年 - 1945年)→同(GHQによる夜間接収)(1945年10月27日 - 12月31日)→ステイトサイド・シアター(GHQによる完全接収)(1946年1月1日 - 1952年7月)→京都宝塚劇場(1952年 - 1956年)→京都宝塚劇場・スカラ座(1956年 - 2006年)
  • 京極東宝1・2・3(京都府京都市中京区新京極四条上ル仲之町534-1)<2006年1月29日閉館>
    • 2008年12月11日、跡地にビジネスホテル「スーパーホテル京都・四条河原町」がオープンした。
      前身: 三友倶楽部(1911年 - 1915年)→三友劇場(1916年 - 1945年)→京極東宝劇場(1954年 - 1996年)→京極東宝(1996年 - 2006年)

中部地区 編集

  • 名宝会館(名宝劇場・名宝スカラ座・名宝シネマ)(愛知県名古屋市中区1-2-6)<1935年11月3日開館、2002年12月1日閉館>
    • 2004年11月1日、跡地に名古屋東宝ビルがオープン、併設してビジネスホテル「リッチモンドホテル(オープン当時はロイネットホテル)名古屋納屋橋」がオープンした。
  • エンゼル東宝(愛知県名古屋市中区栄3-15-20、松坂屋本店北館地下1階)<1972年11月開館、2005年9月4日閉館>
    • 2006年6月、跡地に大人向けディスコ「PLATINUM NAGOYA」がオープンした。
  • 名鉄東宝1・2(愛知県名古屋市中村区名駅1-2-4、名鉄バスターミナルビル内)<1967年6月開館、2006年2月24日閉館>
    • 2006年10月25日、跡地も含めて名鉄百貨店本店メンズ館としてリニューアルオープンした。
      前身: 名鉄東宝(1967年6月 - 1998年1月)→改装休館(1998年1月 - 7月10日)→名鉄東宝1・2(1998年7月11日 - 2006年2月24日)

映画興行成績 編集

演劇 編集

かつては長谷川一夫をメインとした「東宝歌舞伎」などが行われたほか、日劇・北野劇場での実演(歌謡ショーなど)、宝塚歌劇、演芸の東宝名人会や日劇ミュージックホールや南街ミュージックホールでのヌードショーなど多彩であった。

現在はミュージカルや商業演劇を主に制作、興行している。

主な劇場 編集

東宝直営
※東宝発祥の東京宝塚劇場は、現在は阪急電鉄(宝塚歌劇団)が経営し、舞台制作および興行を行っている。建物(東京宝塚ビル)自体は東宝所有。
その他

かつて存在した劇場 編集

新宿コマ劇場シアターアプルは東宝系と見なされる事が多かったが、厳密には東宝ではなく兄弟会社のコマ・スタジアムが経営していた劇場である。舞台制作や興行も同社の手により行われていたが、新聞案内広告では「東宝の演劇」として扱われることが多く、長年毎日新聞金曜日の夕刊(東京本社版)に掲載された東宝提供の「東宝の映画演劇」の広告にも併記されていた。

オープニングロゴ 編集

映画配給 編集

中央に放たれる光の中心にロゴマークが配され、下部に黄文字で「東宝株式会社」と横書きされる(初期のカラー作品は「東宝株式会社製作」や「東宝株式会社配給」と表記)。東宝スコープ作品では東宝マークの左右に黄色いゴシック体の立体処理で「TOHO」「SCOPE」と配されていた。北米公開時には東宝マークの中に「TOHO」のアルファベットが入り、下部の社名表記が「TOHO COMPANY, LTD.」に変わる。円谷英二によってデザイン・制作されたものであり、1992年の創立60周年以降はそれまでの実写・光学合成による映像に代わり、CGで制作されたものが使用されている。2010年以降は16:9とシネスコのオープニングロゴ統一に伴い「東宝株式会社」部分が一新された。

メディア媒体 編集

VHS
初代 (1983年〜1991年)
JCGL (ジャパン コンピューター グラフィックス ラボ)によるCG映像。ズームする球体から「TOHO VIDEO」が浮かびながら回転し、後方から「TOHO VIDEO」が中央部分に合わさると上の発光物質がフラッシュし「東宝」ロゴに変化、「TOHO VIDEO」部分に金の影が入る。映画配給作品など、多くは東宝のロゴ映像から始まるため、CG映像は極めて稀である。
2代目 (1991年~生産終了まで)
横長の球体によって「TOH」が現れ球体が「O」に変化、左にズームすると同時に後方から「VIDEO」が中央部分に合わさり、四角形に囲まれると「TOHO」部分が黒文字に変化する。
DVD・Blu-ray
初代(1999年~2009年)
「DVD(改行)TOHO」の文字が上から回転しながら中央部分に合わさり、白文字に変化する。
2代目(2009年~)
NHKスペシャル」の2代目を踏襲したCG映像。無数のモニターによって「TOHO」の文字が形成され、四角形に囲まれると同時に「Visual Entertainment」の文字が現れて完成する。BGMは初代DVDを流用。

ゲームソフト・アプリ 編集

1987年から1998年まではゲームソフトの販売も行っていた。大半が『ゴジラ』および自社が関わるアニメのゲーム版だが、特に関わりのない普通のゲームもリリース実績がある。(開発は他社による)

2020年代よりスマートフォン用アプリケーションゲームを、「TOHO Games」というレーベルでリリースしている[18]

  • ゴジラ デストラクション/GODZILLA DESTRUCTION(2021年4月27日)
  • ラン ゴジラ/RUN GODZILLA(2021年6月3日)
  • ゴジラ バトルライン/GODZILLA BATTLE LINE(2021年6月15日)
  • からかい上手の高木さん キュンキュンレコーズ(2022年6月8日)
  • おうちに帰りたい ねこの旅(2022年8月3日)

関連会社 編集

2022年2月28日現在で連結子会社33社、持分法適用関連会社3社である。ここでは、東京証券取引所に上場している連結子会社1社、持分法適用関連会社2社のみを挙げる。これ以外については「阪急阪神東宝グループ」の項目を参照。

連結子会社
持分法適用関連会社

所有ビル 編集

有楽町・日比谷地区 編集

新宿地区 編集

  • 新宿東宝ビル - 元新宿コマ劇場および新宿東宝会館の跡地に2015年4月17日オープン。TOHOシネマズ新宿(3階 - 6階)、藤田観光系の「ホテルグレイスリー新宿」(8階 - 30階)などが入居。

大阪地区 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 本社は旧東宝映画があった銀座7丁目大日本麦酒本社内。
  2. ^ そのため、第一回作品は『ほろ酔い人生』となる。
  3. ^ 後の映画プロデューサー。エクラン社日本電波映画の社長として長年京都を中心に活躍した。
  4. ^ 市川はほどなく新生日活へ移籍。
  5. ^ これらは東宝四大喜劇シリーズとも呼ばれている。
  6. ^ これらの映画は監督やメインスタッフも大映系、日活系がほとんどである。
  7. ^ 特に資本関係の強いフジテレビとの提携が中心。
  8. ^ 2019年現在ではワーナー・マイカルの後身であるイオンシネマが第1位。
  9. ^ 特に東映は70年代までは映画配給収入でおおむね東宝の上位に位置していていた。
  10. ^ 経営陣待遇の大物プロデューサーと言われたうち、森岩雄と藤本真澄は副社長、田中友幸は東宝映画会長どまり。
  11. ^ キャリアパスとしての短期間ではあるが。
  12. ^ 2023年春竣工予定。[1]

出典 編集

  1. ^ コーポレート・ガバナンス - 東宝株式会社
  2. ^ a b c d e f g h i j k 東宝株式会社『第132期(2020年3月1日 - 2021年2月28日)有価証券報告書』(レポート)2021年5月27日。 
  3. ^ 東宝株式会社 定款 第1章第1条
  4. ^ 構成銘柄一覧:日経平均株価 Nikkei Inc. 2021年10月8日閲覧。
  5. ^ メンバー会社一覧 - みどり会
  6. ^ 東宝特撮映画全史 1983, pp. 82–83, 「東宝特撮映画作品史 前史」
  7. ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 50–51, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 ゴジラ以前」
  8. ^ 東宝系全劇団が移動文化隊を結成(昭和15年10月1日 中外商業新聞『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p22 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  9. ^ a b ゴジラ大全集 1994, pp. 52–53, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 ゴジラ誕生」
  10. ^ 平成ゴジラ大全 2003, p. 17, 「プロローグ・誕生から終焉へ 田中友幸と森岩雄」
  11. ^ a b 平成ゴジラ大全 2003, p. 19, 「COLUMN 東宝争議とは?」
  12. ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 56–57, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 ワイド化と路線の多様化」
  13. ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 58–59, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 チャンピオンまつりの時代」
  14. ^ 平成ゴジラ大全 2003, p. 97, 「COLUMN 映画調整部とは?」
  15. ^ 東宝が「超一等地」に不動産を持っているワケ 週刊東洋経済 2015年04月27日
  16. ^ 東宝がアニメ事業に本格参入〜パッケージやODSも駆使して劇場ヒット狙う オリコンスタイル 2013年3月3日、同7月2日閲覧。
  17. ^ 東宝が東京楽天地にTOB…買収総額300億円、完全子会社化し連携強化へ”. 読売新聞 (2023年12月6日). 2023年12月7日閲覧。
  18. ^ GODZILLA GAMES PORTAL(ゴジラスマートフォン向けゲームアプリポータルサイト)

参考文献 編集

  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 
  • 『テレビマガジン特別編集 誕生40周年記念 ゴジラ大全集』構成・執筆:岩畠寿明(エープロダクション)、赤井政尚、講談社、1994年9月1日。ISBN 4-06-178417-X 
  • 『平成ゴジラ大全 1984-1995』編著 白石雅彦、スーパーバイザー 富山省吾双葉社〈双葉社の大全シリーズ〉、2003年1月20日。ISBN 4-575-29505-1 

関連項目 編集

外部リンク 編集