東宝株式会社
Toho Co.,Ltd.
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種類 株式会社
市場情報
東証1部 9602
大証1部(廃止) 9602
福証 9602
本社所在地 日本の旗 日本
100-8415
東京都千代田区有楽町1丁目2-2
東宝日比谷ビル10階から12階
設立 1932年8月12日(株式会社東京宝塚劇場)
業種 情報・通信業
事業内容 映画事業
映像事業
演劇事業
不動産事業
代表者 代表取締役社長 島谷能成
資本金 103億5,584万7,788円
(2012年2月末日現在)
発行済株式総数 1億8,899万693株
売上高 単体:841億6,700万円
連結:1,813億6,000万円
(2012年2月期)
営業利益 単体:104億4,900万円
連結:168億2,200万円
(2012年2月期)
純利益 単体:114億5,200万円
連結:98億5,200万円
(2012年2月期)
純資産 単体:1,592億2,600万円
連結:2,366億900万円
(2012年2月末日現在)
総資産 単体:2,306億6,700万円
連結:3,210億円
(2012年2月末日現在)
従業員数 単体:365人(2014年4月現在)
連結:3,171人(2012年2月末日現在)
決算期 2月末日
主要株主 阪急阪神ホールディングス 12.06%(持分法適用会社
阪急不動産 8.01%
エイチ・ツー・オー リテイリング 7.23%
主要子会社 東宝映画 100%
東宝東和 78.8%
国際放映 100%
東宝芸能 100%
TOHOシネマズ 100%
関係する人物 小林一三
渡辺銕蔵
秦豊吉
清水雅
高井英幸
松岡功(名誉会長)
外部リンク http://www.toho.co.jp/
特記事項:1943年12月に東宝株式会社へ商号変更。
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東宝株式会社(とうほう)は、映画演劇の製作配給・興行や不動産賃貸を行う日本企業。一般には映画会社として知られる。

阪急阪神ホールディングス持分法適用会社で、2008年現在、2つの直営演劇劇場(帝国劇場、新館シアタークリエ)を保有する。阪急阪神ホールディングス(阪急電鉄阪神電気鉄道)、エイチ・ツー・オー リテイリング阪急百貨店阪神百貨店)とともに、阪急阪神東宝グループの中核企業となっている。本社は東京都千代田区有楽町一丁目2番2号。

他の阪急阪神東宝グループ同様三和グループのメンバーであるが阪急電鉄と異なり三水会には参加せずみどり会のみに参加している[1]

目次

歴史編集

発足と急成長編集

1932年8月に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の小林一三によって、演劇、映画の興行を主たる目的として株式会社東京宝塚劇場を設立。1934年東京宝塚劇場を開場の後、有楽座、日本劇場帝国劇場を所有し、日比谷一帯を傘下に納め、浅草を手中に収める松竹とともに、東京の興行界を二分するに至る。

一方、会社設立前年に創設された、トーキーシステムの開発を行う写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)は、1937年関連会社JOと合併し、東宝映画株式会社となる。1943年、東宝映画を合併し、映画の製作・配給・興行および演劇興行の一貫経営に乗り出し、社名を東宝株式会社と改めた。PCLには大日本麦酒なども出資しており[2]、東宝は発足当初から、従来の市井の興行師からスタートした映画会社とは一線を画する、財界肝いりの近代企業として期待と注目、そして反発を集めた。なお、その名前の由来は「塚」の略である。

戦中、東京宝塚劇場、日本劇場は風船爆弾工場となり、その東京宝塚劇場が戦後は進駐軍専用のアーニー・パイル劇場と改名されて10年間観客としての日本人立入禁止となるなど、歴史の証人を演ずることになる。

林長二郎事件編集

設立時、他社から多くのスターを驚くほどの高給で引き抜いた。1937年11月12日、天下の二枚目林長二郎が、左顔面を耳下から鼻の下にかけて、斜めに切りつけられ、骨膜に達する重傷を負う。犯人のヤクザ松本常保は、この秋、長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、松竹系の新興キネマ京都撮影所長の永田雅一らに教唆され、犯行におよんだものと判明した。

松本はこの事件で実刑を受けたが、後に自伝「みなさんありがとう」で犯行に荷担していないと表明している。事件後、林長二郎はこの名を松竹に返し、本名の長谷川一夫を名乗るようになった。

プロデューサーシステム編集

東宝の資本とPCLの技術の上に映画の興行面で展開をもたらしたのは製作における予算と人的資源の管理を行うプロデューサー・システムの本格的導入であり、これをもたらしたのがアメリカ帰りの森岩雄とされる。松竹の城戸四郎、日活の根岸寛一と並び称される森だが、この分野における足跡は大きい。PCL時代より民主的な社風で知られ、監督や大スターでも個室がなく、大物に対しても「さん」付けや「ちゃん」付けであった。巨匠監督も部下の助監督や名もない俳優を「さん」付けや「ちゃん」付けで呼んだ。歌舞伎の因習やヤクザっぽい親方子方気質を引きずった封建的な他の映画会社の体質を公然と批判した。他社のようにスタッフや俳優を縁故採用に頼るのではなく公募を戦前より行い、優秀な人材を得た(しかしその優秀な人材が戦後の東宝争議の中心メンバーとなったため、後に縁故採用を強化し、権力に逆らわない人材を入れる傾向に変わっていった)。

東宝争議とその後の混乱編集

1946年から1950年にかけて経営者と労働組合の対立が激化し、1948年8月には撮影所を占拠した組合員に対し排除のため警視庁予備隊、果ては占領アメリカ軍戦車戦闘機まで出動する騒ぎになる。これが「来なかったのは軍艦だけ」と言われた東宝争議である。この間、大河内伝次郎、長谷川一夫、入江たか子山田五十鈴藤田進黒川弥太郎原節子高峰秀子山根寿子花井蘭子の十大スターが結成した十人の旗の会と反左翼の渡辺邦男をはじめとする有名監督の大半は第三組合によって設立された新東宝で活動をすることになる。そのため東宝は再建不能といわれ、映画制作は新東宝に任せ、東宝は配給部門のみ受け持つ方針が真剣に協議されたこともあった。

大スターや大監督がごっそり辞めたことで入社したての三船敏郎らがすぐに主役として抜擢され、若い監督も活躍の場を得やすい状況になった。残留組イコール左翼的という単純な色分けはできないが、共産党員の多くは放逐され、新東宝はまもなく東宝と絶縁して独立会社となったため、比較的リベラルだが政治には深入りしなかった人材が多く残ることになる。新東宝は経営がすぐに悪化し(1961年倒産)市川崑ら一部は東宝に復帰する。

日本映画黄金時代編集

1950年代に迎えた日本映画の黄金時代に、1957年からは「東宝スコープ」を採用し、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』などの黒澤明作品や『ゴジラ』や『モスラ』などの円谷英二による特撮作品を始めとする諸作品によって隆盛を極め、映画の斜陽化が始まった1960年代にもクレージー映画若大将シリーズでヒットを飛ばす。また、社長シリーズ駅前シリーズ(これらは東宝四大喜劇シリーズとも呼ばれている)など安定したプログラムピクチャーの路線を持っていたことも強みであった。財界優良企業らしく健全な市民色、モダニズムを鮮明な作品カラーとし、日本映画が暴力、猟奇、エロティシズムに傾斜していく中でも東宝はそれらの路線とは一線を画し、距離を置いた。上記のシリーズ物が定着する前は現代アクション物も得意とし、後年も『殺人狂時代』、『100発100中』などの異色作に名残を残す。これらは興行的には伸びなかったが、その後の再上映でカルト的な人気を誇った。

1959年にはニッポン放送文化放送、松竹、大映と共にフジテレビを開局。テレビにも本格的に進出する。

映画製作部門の大幅縮小編集

1960年代から映画は斜陽といわれ、東宝もひどい観客減少に悩んでいたが、大規模な量産体制を他社と共に保っていた。しかしカラーテレビの普及が本格化した1970年代になると観客減少は更に深刻な状況となり、大映は倒産、日活ポルノ会社に転向。東宝もこの危機を脱するため、前述の東宝四大喜劇シリーズを全て終了するなど1972年に本社での映画製作を停止、製作部門を分離独立させて発足した「東宝映像」(現在の東宝映像美術、設立1970年、社長田中友幸)と傍系会社の「東京映画」(のちの東京映画新社、設立1983年、社長川上流一)、「東宝映画」(設立1971年、社長藤本真澄)、新たに設立した製作会社「芸苑社」(設立1972年、社長佐藤一郎)、「青灯社」(社長堀場伸世)を5つの核とした製作体制に切り替えた。ただし、専務取締役の藤本(まもなく田中友幸に交替)をトップに据えた東宝映画ですら年に数本、他は芸苑社と東宝映像が年1、2本しか稼働せず、事実上この分社化をもって東宝の自社製作体制は幕をおろすことになる。不採算作品が多くリスクの高い製作部門の停止に伴い、外部からの買取作品・委託引受け作品の配給に力を入れ、自社の興行網を維持する形に転換。

事実上、映画製作会社の看板を降ろし、配給や不動産部門、芸能事務所である東宝芸能へ軸足を移しながら経営の合理化を進めた。ただし阪急グループとしてのイメージや、駅から近い一等地に座席数の多い一流映画館を多く持つため同業他社のようなポルノ映画ヤクザ映画の製作は行わず、そのような外部製作品を配給することも少なかった。この時期、東宝の映画館なら家族連れやアベックでも安心といったイメージを死守したことは現在の繁栄の伏線となっている。しかし予算的には非常にタイトとなり、今日でも評価の高い山本迪夫監督の怪奇映画の多くは二本同撮で作られ、ゴジラ映画は音楽や着ぐるみの使い回しが目立つようになった。

映画製作本数が急激に減った分、テレビ部の奮闘が目立つようになり、『太陽にほえろ!』、『俺たちは天使だ!』などがヒット。ただし、70年代までは砧撮影所は使用せずに国際放映円谷プロを制作協力のクレジットで孫受け発注したり、スタジオを持たない円谷プロの場合などは東京美術センターなどの傍系スタジオを使用するケースが多かった。東宝配給の劇場映画も実際は大映京都撮影所勝プロダクション作品など)や日活撮影所ホリプロ作品など)で製作するものが増えた(これらの映画は監督やメインスタッフも大映系、日活系が殆どである)ため、砧撮影所は急速に稼働率が低下、人員も離散した。大ベテランの岡本喜八堀川弘通両監督を解雇した1977年を一時代の終焉と見ることもできる。

それでも1980年代半ばまでは当時人気アイドルだった斉藤由貴沢口靖子主演のアイドル映画を東宝映画が製作するなど独立プロダクション程度の活動は継続していた。そしてこの時期からアニメーションの製作にも関与するようになる。一方で、1969年 - 1978年東宝チャンピオンまつりとして子供向け映画を上映した。 また、この時期はバブル期であった。そのためか日劇渋谷東宝会館日比谷映画劇場有楽座梅田劇場、北野劇場などが建て替えられ映画興業以外もおこなう複合施設となり、資産価値を増加させている。

現在編集

1990年代に入ると、自社での邦画製作は「ゴジラ シリーズ」を除き行われなくなり、主にテレビ局や外部プロダクションが製作した映画を配給し、成功をおさめた。

2000年以降は、ワーナー・マイカル・シネマズが優位に立っていたシネコン市場に本格的に参入し、2003年のヴァージン・シネマズ・ジャパン株式会社(現・TOHOシネマズ株式会社)の買収で、グループ企業のスクリーン数ではNo.1を誇る。

その後も日本映画界や興行界に不動の地歩を占めつづけ、現在に至っている。製作会社(テレビ局が多い)も大予算をかけた自信作は興行に強い東宝へ配給委託したがり、それがまた数字を積み上げるという好循環が重なった結果、ここ数年は一人勝ち状態が定着した。1980年代前半までライバルとして競り合ってきた東映や松竹は今では二社の興行収入を合わせても東宝の数分の一である。

又、かって映画館用地として購入した全国の一等地の物件の賃貸を中心とする不動産事業も、営業利益のうち約4割を占め、地味ではあるが、業績を下支えする安定した重要な事業になっている[3]

なお同社は大手映画会社としては唯一撮影所出身の社長が存在しなかったが(経営陣待遇の大物プロデューサーと言われたうち、森岩雄と藤本真澄は副社長、田中友幸は東宝映画会長どまり)、2002年に初のプロデューサー経験者(キャリアパスとしての短期間ではあるが)として高井英幸が社長に就任した。

近年は、東宝本体で製作委員会に参加するなど、映画製作において積極的な姿勢をとっている。また砧撮影所の空洞化や技術伝承の中断に危機感を持ってレンタル展開を積極化。単独出資での「東宝映画」はほぼ絶えたものの、製作参加・配給・撮影所供給といった形で東宝カラーを打ち出し、守る方向が試されつつある。

2013年には『アニメ事業室』を新設、同時に自社音楽レーベルも立ち上げ、自社企画でのアニメ事業の強化に乗り出している[4]

歴代社長編集

映画編集

主要作品編集

1930年代編集

1940年代編集

1950年代編集

1960年代編集

1970年代編集

1980年代編集

1990年代編集

2000年 - 2004年編集

2005年編集

2006年編集

2007年編集

2008年編集

2009年編集

2010年編集

2011年編集

2012年編集

2013年編集

2014年編集

2015年編集

2016年編集

2017年編集

主要テレビ作品編集

1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代

主なプロデューサー編集

主な監督編集

主な脚本家編集

主な音楽家編集

主なカメラマン編集

主な俳優(男性)編集

主な俳優(女性)編集

その他編集

オープニングロゴ編集

中央に放たれる光の中心にロゴマークが配され、下部に黄文字で「東宝株式会社」と横書きされる(初期のカラー作品は「東宝株式会社製作」になっている)。東宝スコープ作品では東宝マークの左右に黄色いゴシック体の立体処理で「TOHO」「SCOPE」と配されていた(英語版画像)。北米公開時には東宝マークの中に「TOHO」のアルファベットが入り、下部の社名表記が「TOHO COMPANY, LTD.」に変わる(英語版画像)。円谷英二によってデザイン・制作されたものであり、1992年の創立60周年以降はそれまでの実写・光学合成による映像に代わり、CGで制作されたものが使用されている。

映画館編集

東京、名古屋、大阪、京都の主要館をかつては直営として経営していた。1990年代末期以降、本社地区は東宝サービスセンターに、関西地区は東宝ビル管理に、中部地区は中部東宝に運営を委託。2006年以降、東宝グループの映画興行をTOHOシネマズに集約することになったため、現在は東宝の直営館は存在しない。以下、東宝直営館として閉館した映画館を示す。傍系の映画興行会社が経営していた映画館は六部興行を、TOHOシネマズに移管した映画館はTOHOシネマズを参照のこと。

本社地区編集

  • 宝塚会館東京都千代田区有楽町1-12) <1934年1月1日開館、1997年12月29日閉館>
    • 東京宝塚劇場(宝塚会館 1階)<1934年1月1日開館、1997年12月29日閉館>
    • スカラ座(宝塚会館 4階)<1940年4月16日開館、1955年7月13日改装、1997年12月29日閉館>
    • 東宝演芸場(宝塚会館 5階)<1938年9月23日開館、1955年8月1日改装、1997年12月29日閉館>
      • スカラ座の当初の名称は東宝四階劇場。東宝演芸場の当初の名称は東宝小劇場。それぞれ改装時に改称している。東京宝塚劇場は戦時中は風船爆弾の工場として使われた。戦後はGHQに接収(1945年12月24日 - 1955年1月26日)され、アーニー・パイル・シアター(1946年2月24日 - 1955年1月26日)と改称された。
  • 日劇会館東京都千代田区有楽町2-5-1) <1933年12月24日開館、1981年2月22日閉館>
    • 日本劇場(日劇会館 1階) <1933年12月24日開館、1981年2月22日閉館>
    • 日劇ミュージックホール(日劇会館 5階) <1952年3月17日開館、1981年2月22日閉館>
    • 丸の内東宝劇場(日劇会館 地下1階) <1955年2月10日開館、1981年2月22日閉館>
    • 日劇文化劇場(日劇会館 地下1階) <1935年12月30日開館、1955年8月12日改装、1981年2月22日閉館>
      • 当初日本映画劇場株式会社の所有だったが、1934年3月14日より直営興行を開始し、その後同社を吸収合併し所有権を得た。戦時中は風船爆弾の工場として使われた。丸の内東宝劇場は戦後、地下増床工事により開館した。日劇文化劇場は当初、ニュース映画専門館の第一地下劇場で戦後の改装時に日劇ニュース劇場となり、さらに改称され日劇文化劇場となった。1984年10月6日、日劇と朝日新聞旧東京本社跡地に有楽町センタービル(通称・有楽町マリオン)がオープンした。旧日劇(現在の有楽町阪急)側にTOHOシネマズ日劇がある。
  • 日比谷映画劇場(東京都千代田区有楽町1-2-2) <1934年2月1日開館、1984年10月31日閉館>
    • 閉館に先駆けて、東宝邦画系封切館「千代田劇場」は洋画ロードショー館「日比谷映画」としてリニューアルオープン(ただし「劇場」は外している)。
  • 有楽座(初代)(東京都千代田区有楽町1-2-2) <1935年6月7日開館、1984年10月31日閉館>
    • 当初演劇用劇場であったが、1951年1月1日に映画館に改装した。2005年4月9日、「ニュー東宝シネマ」が有楽座の名称を復活させリニューアルオープン。現在の館名は「TOHOシネマズ有楽座」。1987年10月3日、日比谷映画劇場と有楽座の跡地に東宝日比谷ビル(通称・日比谷シャンテ)がオープンした。
  • 東宝会館(東京都千代田区有楽町1-2-1)<1957年4月14日開館、2005年4月8日閉館>
    • 芸術座(東宝会館 4階)<1957年4月14日開館、2005年3月27日閉館>
    • 日比谷映画(東宝会館 1階) <1957年4月14日開館、2005年4月8日閉館>
    • みゆき座(初代)(東宝会館 地下) <1957年4月14日開館、2005年3月31日閉館>
      • 日比谷映画は当初、東宝邦画系封切館「千代田劇場」として開館。1984年10月31日に閉館する日比谷映画劇場の名称を引き継ぎ同年10月27日に日比谷映画に改称した。みゆき座は1971年2月1日に日本初となるノンリワインド映写機を導入している。閉館の翌4月1日、スカラ座2がみゆき座の名称を引き継いだ。現在は館名が「TOHOシネマズみゆき座」に変更されている。2007年10月、跡地に東宝シアタークリエビルがオープンした。
  • 渋谷東宝会館(東京都渋谷区道玄坂2-6-17) <1936年11月1日開館、1989年2月26日閉館>
    • 渋谷東宝劇場(渋谷東宝会館 1階) <1936年11月1日開館、1989年2月26日閉館>
    • 渋谷スカラ座(渋谷東宝会館 4階) <1989年2月26日閉館>
    • 渋谷文化劇場(渋谷東宝会館 地下) <1952年11月17日開館、1989年2月26日閉館>
      • 当初は東横映画劇場であったが、1944年9月1日に渋谷東宝劇場に改称している。渋谷文化劇場のみ1952年6月9日に設立された株式会社渋谷文化劇場が経営・運営していた。1991年7月6日、跡地に渋東シネタワーが開館した。2011年7月15日、TOHOシネマズ渋谷としてリニューアルオープンした。
  • ニュー東宝シネマ2(東京都千代田区有楽町2-2-3、ニユートーキヨービル地下1階) <1957年5月開館、1995年6月閉館>
    • 大映封切館「スキヤバシ映画」として開館。大映系のチェーンマスターとして機能したが、同社の経営破綻・制作配給からの撤退に伴い、東宝洋画系に転換の上1972年5月に上記の館名に変更。シネマ2の閉館の際、「ニュー東宝シネマ1(オープン当時の館名は『ニュー東宝』)」は「ニュー東宝シネマ(現在のTOHOシネマズ有楽座)」に館名を変更した。現在、跡地にはイタリアンレストランVINO VITA」数寄屋橋本店地下1階店とカクテルバーBAR・B」が入店している。
  • 渋谷宝塚劇場(東京都渋谷区宇田川町21-6)<1997年5月30日閉館>
    • 1999年12月18日、跡地に複合商業ビル「QFRONT」がオープンし、同ビルの7階に渋谷シネフロントが開館した。
  • 上野東宝劇場(東京都台東区上野公園1-51) <1954年12月13日開館、2003年8月31日閉館>
  • 上野宝塚劇場(東京都台東区上野公園1-52) <1954年12月13日開館、2003年8月31日閉館>
    • 2005年4月、上野東宝劇場・上野宝塚劇場跡地に飲食店舗ビル「上野バンブーガーデン(正式名称:東宝上野ビル)」がオープンした。

関西地区編集

  • 梅田会館(梅田劇場・梅田スカラ座・北野劇場・北野シネマ・梅田地下劇場)(大阪市北区角田町7-10) <1937年12月9日開館、1978年2月28日閉館>
    • 戦後間もなくはGHQに接収されていた。
  • 南街会館(南街シネプレックス - 南街劇場・南街東宝・南街シネマ・南街スカラ座・南街文化劇場)(大阪府大阪市中央区難波3-8-11) <1953年12月18日開館、2004年2月1日閉館>
    • 前身は1938年に開館した南街映画劇場。戦後に改築した。2006年9月22日、跡地に東宝南街ビルがオープンし、地下1階から7階はなんばマルイ、8階から11階はTOHOシネマズなんばが入店している。
  • 京都宝塚会館(京都宝塚劇場・京都スカラ座)(京都府京都市中京区河原町通三条下ル大黒町58) <1935年10月開館、2006年1月29日閉館>
    • 2008年4月25日、跡地に複合商業ビル「mina kyoto」がオープンした。
      前身: 京都宝塚劇場(1935年 - 1945年)→同(GHQによる夜間接収)(1945年10月27日 - 12月31日)→ステイトサイド・シアター(GHQによる完全接収)(1946年1月1日 - 1952年7月)→京都宝塚劇場(1952年 - 1956年)→京都宝塚劇場・スカラ座(1956年 - 2006年)
  • 京極東宝1・2・3(京都府京都市中京区新京極四条上ル仲之町534-1) <2006年1月29日閉館>
    • 2008年12月11日、跡地にビジネスホテル「スーパーホテル京都・四条河原町」がオープンした。
      前身: 三友倶楽部(1911年 - 1915年)→三友劇場(1916年 - 1945年)→京極東宝劇場(1954年 - 1996年)→京極東宝(1996年 - 2006年)

中部地区編集

  • 名宝会館(名宝劇場・名宝スカラ座・名宝シネマ)(愛知県名古屋市中区1-2-6)<1935年11月3日開館、2002年12月1日閉館>
    • 2004年11月1日、跡地に名古屋東宝ビルがオープン、併設してビジネスホテル「リッチモンドホテル(オープン当時はロイネットホテル)名古屋納屋橋」がオープンした。
  • エンゼル東宝(愛知県名古屋市中区栄3-15-20、松坂屋本店北館地下1階) <1972年11月開館、2005年9月4日閉館>
  • 名鉄東宝1・2(愛知県名古屋市中村区名駅1-2-4、名鉄バスターミナルビル内) <1967年6月開館、2006年2月24日閉館>
    • 2006年10月25日、跡地も含めて名鉄百貨店本店メンズ館としてリニューアルオープンした。
      前身: 名鉄東宝(1967年6月 - 1998年1月)→改装休館(1998年1月 - 7月10日)→名鉄東宝1・2(1998年7月11日 - 2006年2月24日)

演劇編集

かつては長谷川一夫をメインとした「東宝歌舞伎」などが行われたほか、日劇・北野劇場での実演(歌謡ショー等)、宝塚歌劇、演芸の東宝名人会や日劇ミュージックホールや南街ミュージックホールでのヌードショー等多彩であった。

現在はミュージカルや商業演劇を主に制作、興行している。

主な劇場編集

東宝直営

※東宝発祥の東京宝塚劇場は、現在は阪急電鉄(宝塚歌劇団)が経営し、舞台制作および興行を行っている。建物(東京宝塚ビル)自体は東宝所有。

その他

かつて存在した劇場編集

新宿コマ劇場シアターアプルは東宝系と見なされる事が多かったが、厳密には東宝ではなく兄弟会社のコマ・スタジアムが経営していた劇場である。舞台制作や興行も同社の手により行われていたが、新聞案内広告では「東宝の演劇」として扱われることが多く、長年毎日新聞金曜日の夕刊(東京本社版)に掲載された東宝提供の「東宝の映画演劇」の広告にも併記されていた。

ゲームソフト編集

関連会社編集

2009年現在で連結子会社52社、持分法適用関連会社4社である。ここでは、証券取引所に上場していた連結子会社3社、持分法適用関連会社2社のみを挙げる。これ以外については「阪急阪神東宝グループ」の項目を参照。

連結子会社編集

持分法適用関連会社編集

所有ビル編集

有楽町・日比谷地区

新宿地区

大阪地区

これ以外(小規模ビル等)については東宝株式会社 不動産経営部を参照

脚注編集

関連項目編集

外部リンク編集