中郎将(ちゅうろうしょう)は、中国前漢以降の官職名。

概要 編集

前漢においては、光禄勲(郎中令)に属し、宮殿の門戸を守り戦時には戦車や騎兵に充てられる中郎(秩禄比六百石)を統率した。

五官中郎将、左中郎将、右中郎将の3将がおり、また、宣帝の時に羽林を統率する羽林中郎将が、平帝元始元年(1年)に虎賁郎を統率する虎賁中郎将が置かれた。中郎将は全て秩禄比二千石であった。

後漢においても光禄勲に属し、五官中郎将、左中郎将、右中郎将、虎賁中郎将、羽林中郎将が引き続き置かれ、いずれも秩禄比二千石であった。

五官中郎将、左中郎将、右中郎将は中郎(秩禄比六百石)、侍郎(秩禄比四百石)、郎中(秩禄比三百石)を統率した。

虎賁中郎将は宿衛侍従を掌り、属官には左右僕射、左右陛長(秩禄比六百石)がおり、中郎(秩禄比六百石)、侍郎(秩禄比四百石)、郎中(秩禄比三百石)を統率した。虎賁郎は本人が死んだら子が代わりに就任することとなっていた(『続漢書劉昭注引荀綽『晋百官表注』)。

羽林中郎将もまた宿衛侍従を掌り、羽林郎(秩禄比三百石)を統率した。また羽林には羽林左監、羽林右監(秩禄比六百石)がおり、羽林騎を司った。

また後漢末頃には東西南北の方位を付した四中郎将があり、遠征軍の指揮官となった。黄巾の乱の際に、盧植が北中郎将、董卓が東中郎将に任命されている。

後漢末の戦乱の時期には、各軍閥のトップは将軍号を自ら任じ、配下を独自の名を持つ中郎将に任命することがあった(例えば、劉備諸葛亮を軍師中郎将とした)。

二千石には皇帝の許可なく逮捕できない特権(『漢書』文帝紀、文帝前7年)や、兄弟や子を郎に就けることができる任子(『漢書』哀帝紀注)などの特権があった。比二千石以上の官が持つ印綬は銀印青綬であった。

参考文献 編集