平将恒
平安時代中期から後期にかけての豪族、武将。平忠頼の次男。武蔵国の名族・秩父氏 (秩父平氏) の祖。
平 将恒(たいら の まさつね)は、平安時代中期から後期にかけての豪族、武将。桓武天皇6世で、武蔵国の名族・秩父氏の祖[1]。諱は将常とも。父は平忠頼、生母は平将門の娘・春姫。母方の祖父が平将門であり、将恒の「将」の諱も将門から引き継いだものと思われる。官位は武蔵権大掾。
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛弘4年(1007年)? |
死没 | 天喜5年(1057年)? |
別名 | 将常、大蔵太郎、六郎、秩父将恒、秩父将常 |
官位 | 武蔵権大掾 |
氏族 | 桓武平氏、秩父氏[1] |
父母 | 父:平忠頼、母:平将門娘・春姫 |
兄弟 | 忠常、将恒、頼尊 |
妻 | 平忠通娘 |
子 | 秩父武基、豊島武常、小山田常任 |
略歴
編集治安3年(1023年)、武蔵介の藤原真枝が勅命に反し武蔵国にて兵を起こした。将恒は藤原真枝征伐の命を受けて相模・上総の兵を率いて豊島で戦い、藤原真枝は自害、将恒はこれを鎮圧した功で駿河・武蔵・上総・下総に領地を得たという。
長元元年(1028年)、兄・忠常が房総半島で大規模な反乱(平忠常の乱)を起こしたが、将恒はこれに加担せず、勢力を大きく減退させることはなかったと伝わる。
武蔵秩父郡において秩父氏を称し、将恒の子孫は秩父平氏として武蔵国各地に勢力を拡大した。長男・武基の生母は武蔵武芝の娘(『西角井系譜』より)とされるが、その系図の信憑性は問題があり信用ができない[2]。次男・武常と三男・常任の生母は平忠通の娘とされる(『桓武平氏良文系全系図』より)
前九年の役にて、51歳で戦死したと伝わる。
系譜
編集脚注
編集関連項目
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