志免鉱業所竪坑櫓

日本の福岡県志免町にある志免鉱業所の遺構

志免鉱業所竪坑櫓(しめこうぎょうしょたてこうやぐら)は、福岡県糟屋郡志免町にある元国鉄志免鉱業所(志免炭鉱;旧海軍炭鉱)の産業遺産である。

周囲は運動公園として整備されている。櫓の後ろに見えているのはボタ山

近代建設技術史上価値が高いものとして、2009年(平成21年)に国の重要文化財に指定されている[1]

概要 編集

 
旧志免鉱業所竪坑櫓(右は北北東から、左は南南西からそれぞれ撮影※設計上北北東面が正面である)

旧日本海軍日本国有鉄道によって運営された「国営炭鉱」であった海軍新原炭鉱(後に国鉄志免鉱業所となる)の採炭夫を昇降させ、石炭を搬出するための施設である。当時の海軍燃料廠採炭部(後に第四海軍燃料廠)の海軍技術少将であった猪俣昇による設計[2]で、捲揚機が櫓上部にある塔櫓捲(ワインディングタワー、またはタワーマシン)形式の竪坑櫓[3]として下層炭の採掘用として造られたものである。

地上にある櫓の部分は1941年昭和16年)に着工し、1943年(昭和18年)に完成。地下の竪坑は竪坑櫓の完成後1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)にかけて開鑿され完成をしたとされた。竪坑の底である壺下は完成形の竪坑では半球形にコンクリート等で塞がれるが、この竪坑の設計図には壺下の設計は記載されておらず土などの開削をした跡がそのままとされて、最下層の石炭の採掘にも竪坑の延長が出来る様に読み取れる。終戦時には採掘用の坑道までは未だ出来上がっておらず、国鉄移管後までは出炭は出来なかった。

海軍が軍艦用として開設した炭鉱で敗戦時は第四海軍燃料廠という名称であったが、敗戦後、海軍省の消滅により大蔵省が一時所有していた際、海軍炭鉱最後の所長である猪俣により、SL(蒸気機関車)運転用の石炭が不足していた運輸省に移管させられ、運輸省門司鉄道局志免鉱業所となった。

猪俣は、嘱託として初代所長を引き受けたが、翌年元からの国鉄職員と交代をし、自らは嘱託技術職員となり後に退職[4],民営炭鉱へと転職をした。

国鉄移管後に竪坑からも石炭が揚炭されていったが、最下層の採掘はされず国鉄鉄道路線の電化及び内燃(ディーゼル)化により、1964年(昭和39年)に閉山となった。

イギリスで製鋼された上等のスウェーデン鋼やお寺の鐘を、戦時という状況下で海軍の名の下に没収(※元海軍技手で、戦後国鉄志免鉱業所の副長を務めた、濱島毅への取材による)し、材料として用いた鉄筋コンクリート造で、当時の価格で200万円(関連施設含む。2022年現在の価値で約6億6千万円)もの予算をかけて建設された。高さ47.65メートル、長辺15メートル、短辺12.25メートル。9階建てとされ8階にケーペプーリーという捲揚用の巨大な滑車が設置され、東側の小突出が運転席[5]であった。

竪坑櫓の9階には,天井走行クレーン(天井移動クレーン;天井移動起重機とも呼ばれ、石川島重機製作所の製造で[石川島]の銘板付き。)の走行移動用レールが設置され、西側突出の底は穴が開けられており、地上からこの天井移動クレーンで部品の昇降が行われた。設計図では実際に設置された捲揚機から、西の位置へ直角にもう一セットの捲揚機を設置するように描かれていた。実際に設置された方の捲揚機はケージ、炭車と呼ばれるトロッコの昇降と職員の昇降に利用された。もう片方はエレベーターの籠に直接石炭を積み込み底が漏斗状なり石炭を運搬用のベルトコンベアーや炭車に積める形であるスキップと言うシステムに設計されている様に設計図に書かれている。

地上から炭層に垂直に掘られた竪坑が地直径7メートル、壺下が地下430メートルまで延び、竪坑櫓の捲揚室にはケーペ式捲揚機が設置[6]された。直結する直径5メートルのケーペプーリーが櫓の高層部、高さ35メートルの8階に置かれ、6階には直径4㍍の位置の決定と滑り止め用のガイドプーリーが設置されている。7階にはブレーキシステムが置かれ、その立坑櫓の形式はワインディング・タワー(塔櫓捲式)と呼ばれる形で、戦前建設の下部は脚のみで上部に大形の機械室と、運転室を持つので頭部が相当に大きい状態となり、ハンマーコップフ(独語;英語でハンマーヘッドの意味)のタイプと呼ばれる。

この初期型の形式である、国内設置のワインディングタワーは三井三池炭鉱四山第一竪坑に設置されていたが、既に解体されており解体当時学会の一部には、志免町のこの竪坑櫓は知られておらず、荒尾市の四山第一竪坑櫓解体後、貴重な他に例を見ない立坑櫓が解体をされてしまったと大騒ぎになっていたが、残存している事が広く知られると、四山第一立坑櫓と同形式の竪坑櫓として注目を集めた。

ワインディングタワー形竪坑櫓で、第二次世界大戦終戦前に建設されたもので現存しているハンマーコップフ形式の立坑櫓は国鉄志免(旧海軍)炭鉱と旧南満州鉄道が建設経営をしていた撫順炭鉱龍鳳竪坑(中国撫順市)、トランブルール炭鉱(ベルギーリエージュ州)の3か所だけである。

所在地・交通 編集

脚注 編集

  1. ^ 文化庁ホームページ
  2. ^ 『日本鉱業会誌』〈現在の「資源素材学会誌」〉の64号に「志免鉱業所下層炭開発に就いて」に猪俣の詳しい記述がある
  3. ^ 立坑櫓とも記す。海軍時は竪の文字が、国鉄移管後には立の文字が主に現場では使われていたが、これはどちらも正しい表記である
  4. ^ 優秀な技術者ではあったが、戦前は海軍技師として働き、軍人では無かったのだが、戦時中に海軍炭鉱の経営をしていた軍人が、戦場へ出向き不足して仕舞ったので、猪俣は海軍の軍人である技術将校の技術大佐に登用され、後には勅任将校技師の海軍技術少将〈海軍勅任官では中将、大将等の階級が有るが、勅任技師では技術少将が最高の階級であった〉に迄進級していたので、第二次世界大戦の敗戦後には公職追放処分となっていた、その為、豊富な優秀なる知識を伝える間だけ、国鉄に嘱託での所長として拝職をし、国鉄職員の所長が着任できると、直ぐに普通の嘱託として残務を行った後、退職をせざるを得なかったと、遺族からも証言を得ている
  5. ^ 竪坑の運転については,日本産業技術史学会志免大会配布資料集に、元捲方(まきかた:竪坑の運転士の事)を勤められた花岡カメラ店主の花岡幸弘の記述に詳しい。なお当資料は国立国会図書館に所蔵されている。
  6. ^ ケーぺ式捲揚機の直流電動機は芝浦製作所〈後の東京芝浦電機製作所。現在の東芝〉製造1000馬力

参考文献 編集

  • 日本国有鉄道志免鉱業所十年史編集部『日本国有鉄道志免鉱業所十年史』立坑。1956年。日本国有鉄道志免鉱業所。
  • 九州産業考古学会編 『福岡の近代化遺産』志免鉱業所竪坑櫓,徳永博文。 弦書房、2008年。ISBN 978-4-902116-96-0
  • 産業考古学会編『日本の近代を開いた産業遺産』旧志免鉱業所竪坑櫓。大石道義,徳永博文。産業考古学会,プラスワン、2011年。ISBN978-4-9905869-1-1。
  • 国際鉱山ヒストリー会議赤平大会論文集2003年。志免炭鉱竪坑と第八坑の技術,歴史.山田大隆,大石道義,長渡隆一.(英文)
  • 猪俣昇.『運転輸省門司鉄道局志免鉱業所下層炭開発に就いて。』「日本鉱業会誌(現資源素材学会)」1964年。
  • 猪俣昇,『鉱山用換気用プロペラー』九州鉱山学会誌。
  • 浜島毅.志免鉱業所の竪坑建設について。日本産業技術史学会志免大会配布資料(国立国会図書館所収)。
  • 花岡幸弘.志免鉱業所での竪坑の運転。日本産業技術史学会志免大会配布資料(国立国会図書館所収)。
  • 産業考古学会編『日本の産業遺産Ⅱ』志免炭鉱の産業遺産,山田大隆,池森寛,大石道義,長渡隆一。玉川大学出版部。

関連項目 編集

  • 志免駅 - 竪坑櫓から200メートルほど離れた所にあった勝田線の廃駅。旅客ホーム跡は志免鉄道記念公園として整備されている。

外部リンク 編集

座標: 北緯33度35分25.3秒 東経130度29分10.6秒 / 北緯33.590361度 東経130.486278度 / 33.590361; 130.486278