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悟渓宗頓(ごけいそうとん、1416年応永23年) - 1500年10月9日明応9年9月6日))は、室町時代臨済宗大徳寺52世住持妙心寺11世住持を務め、妙心寺四派の一つである東海派の開祖となった。

尾張国丹羽郡(現・愛知県丹羽郡扶桑町)に生まれる。出家後、瑞泉寺(愛知県犬山市)で妙心寺四祖の日峰宗舜に師事し、その後愚渓寺岐阜県可児郡御嵩町)の義天玄承汾陽寺(岐阜県関市武芸谷)住持の雲谷玄祥、や大樹寺(三重県四日市市市場町)住持の桃隠玄朔の下に参禅した。京都に移ってからは龍安寺の住持で、妙心寺六祖の雪江宗深に就いて印可を得た。

1467年応仁元年)、戦火を避けて瑞泉寺に戻り臥龍庵に住するようになるが、1468年(応仁2年)斎藤妙椿の招きにより、土岐成頼の菩提寺である瑞龍寺(岐阜県岐阜市)を師の雪江宗深を勧請開山として、その開山となった。1471年文明3年)に大徳寺52世住持となり、1480年(文明12年)に再度大徳寺に住した。1484年(文明16年)には景川宗隆の後任で妙心寺11世住持となり、東海庵の開祖となる。晩年は瑞龍寺に戻り法嗣を育成し、また瑞泉寺に住まい、徳林寺(愛知県丹羽郡大口町)の開祖となった。1497年(明応6年)勅して大興心宗禅師の号を賜い、1500年(明応9年)瑞龍寺済北院で没した。後に仏徳広通国師と諡された。

天従宗受・西川宗洵・仁済宗恕・玉浦宗珉・寿岳宗膨・瑞翁宗縉・独秀乾才・興宗宗松の8人の法嗣を「悟渓下八哲」と呼び、濃尾地方に広くその法を遺した。また、残されたその法語は後に『虎穴録』としてまとめられた。

参考資料編集

  • 『新版禅学大辞典』
  • 『妙心寺 650年の歩み』