春月 (駆逐艦)

秋月型駆逐艦九番艦
1944年12月に撮影された春月
艦歴
計画 1941年度(マル急計画
起工 1943年12月23日
進水 1944年8月3日
竣工 1944年12月28日
除籍 1945年10月5日
その後 復員輸送に従事
1947年ソ連に引き渡し
1969年6月4日に除籍
要目(計画)
排水量 基準:2,701英トン
公試:3,470トン
全長 134.2m
全幅 11.6m
吃水 4.15m
機関 ロ号艦本式缶3基
艦本式タービン2基
2軸 52,000馬力
速力 33.0ノット
航続距離 18ノットで8,000海里
燃料 重油:1,080トン
乗員 263名/400名[1]/447名[2]
兵装
(1945年[3]
65口径10cm連装高角砲 4基8門
25mm機銃 3連装5基
同単装機銃24挺
61cm4連装魚雷発射管 1基4門
九三式魚雷8本)
九四式爆雷投射器2基
爆雷投下軌条2条
九五式爆雷 54個
電探
(1945年[3]
22号1基
13号2基
水測兵装 九三式探信儀1基
九三式水中聴音機1基[4]

春月(はるつき)は、日本海軍駆逐艦[5]秋月型駆逐艦の9番艦。 艦名は片桐大自の研究によれば「」の意味[6]

概要 編集

一等駆逐艦春月(はるつき)は、日本海軍が佐世保海軍工廠で建造した秋月型駆逐艦[7]。 秋月型の第2グループとして冬月型に分類する分類法もある[8]

1944年(昭和19年)12月28日に竣工後[5]、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入された[7]1945年(昭和20年)1月20日に第一護衛艦隊麾下の第百三戦隊が新編されると[9]、「春月」は同戦隊の旗艦となった。第百三戦隊は第一護衛艦隊の僚艦と共に、黄海~朝鮮方面の護衛任務に従事した[7]。終戦後、「春月」は復員輸送艦として行動する[7]1947年(昭和22年)8月28日、賠償艦としてソビエト連邦に引き渡された[7]

艦歴 編集

日本時代 編集

1941年(昭和16年)度計画(マル急計画)による乙型一等駆逐艦の第362号艦として[5]佐世保海軍工廠において1943年(昭和18年)12月23日に起工[8][10]1944年(昭和19年)8月3日、「春月」は進水した[8][10]。同年12月28日に竣工した[10][11]。当初は三菱長崎造船所で建造される予定であったが、線表改訂により佐世保海軍工廠での建造に変更された[12]

就役後の「春月」は、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完海軍少将海軍兵学校41期)に編入されるも、乗員の練習度不足により、訓練のため1ヵ月間の猶予を申し出た[13]。また、戦隊旗艦および司令駆逐艦として使用するために艦橋後部の拡張工事が行われ[12]、拡張部を含めた艦橋は、他の秋月型駆逐艦諸艦のそれより大きく取られた。艦橋重量が増したため、他の冬月型が備えた艦橋左右への機銃台設置は、「春月」では行われなかった[14]。1月20日に佐世保を出港して瀬戸内海に回航された[15][11]

この頃、新しい対潜掃討部隊として第百三戦隊(司令官久宗米次郎少将・海兵41期)[16]1月20日附で編成され[9]第一海上護衛艦隊(司令長官岸福治中将・海兵40期、前年12月20日新編)の指揮下に入った[17]。「春月」は佐世保出港日の1月20日付で第百三戦隊に編入され[18]、1月23日に久宗少将以下司令部が乗艦して将旗を翻した[19]。ただし、戦隊旗艦になったとはいえ前述どおり乗員の練習度が浅かった事から、半月ほどは引き続き第十一水雷戦隊の指揮下で訓練を続行し、残る半月は佐伯湾に回航して対潜訓練に宛てられる事となった[20]

訓練終了後、3月6日にを出撃した[21]。同日付で第百三戦隊は鎮海警備府護衛部隊(鎮警長官岡敬純中将)に編入された[22]。3月8日、「春月」は鎮海に到着した[23]。3月12日、岡中将は黄海方面部隊を編成し、黄海方面の対潜作戦・航路の統一管制をおこなう[22]。黄海方面部隊(指揮官久宗少将/第百三戦隊司令官)は、春月、隠岐、第六十七号海防艦、巨済、済州、第二十号掃海艇、第十九号駆潜艇、第二十六号駆潜艇という兵力であった[22]。 「春月」は択捉型海防艦隠岐第十九号駆潜艇と合流し、久宗少将(第百三戦隊司令官)は3隻(春月、隠岐、第十九号駆潜艇)を率いて3月15日に荷衣島へ進出した[22][24]。黄海方面部隊は、対潜作戦と海上交通保護作戦に従事した[22][25]

5月に入ると連合軍機による空襲も激しくなり、船舶の被害は拡大するばかりだった[26]。6月1日、第一海上護衛部隊の兵力部署が改定され、黄海方面護衛部隊(指揮官久宗少将/第百三戦隊)の兵力は第百三戦隊(春月ほか、一部欠)、第一海防隊、第十二海防隊、第十九号駆潜艇、第二十一号駆潜艇、第二十六号駆潜艇となった[26]。米軍の沖縄本島制圧と航空基地の展開により航空攻撃はますます激化し、哨戒線は朝鮮半島西岸部や対馬海峡まで後退した[26]。 「春月」は7月1日に佐世保へ帰投し[27][11]、8月15日の終戦をで迎えた[28]

10月5日、「春月」は除籍された[11][5]。その後は復員輸送艦となる。横須賀で特別保管艦として係留[28]。長浦港にて、陽炎型駆逐艦「雪風」と並んで繋留された写真も残る[29]1947年(昭和22年)8月25日に佐世保を出港してナホトカに向かった。8月28日に到着後、ソ連に賠償艦として引き渡された[10]。ソ連では「ポスペシュニー」と命名され1960年代前半に廃艦となったという情報もあるが[30][31]ロシア側の情報では以下のようになっている[32]

ソ連時代 編集

日本海軍の解体に関連し、引渡しに先立って1947年(昭和22年)7月7日付けでソ連海軍に登録され、1947年(昭和23年)8月28日にソ連海軍へ引き渡され、太平洋艦隊第5艦隊に編入された。引き渡し当時は武装解除された状態であったが、艦の状態は良好であった。9月25日付けでヴネザープヌイВнезапный)と改名された。艦名は、「突然の」という意味のロシア語形容詞である。類別は日本時代に引き続き駆逐艦(ロシア語では「艦隊水雷艇」:Эскадренный миноносец)とされ、第5艦隊第63駆逐艦隊に配属された。第5海軍第0211号指令により、ヴネザープヌイは1948年4月15日から丸一年にわたり保管状態に入れられた。

第0031号指令により、ヴネザープヌイでは1949年(昭和25年)4月28日から修復工事が開始された。6月17日付けで練習艦Учебный корабль)に類別を変更され、艦名をオスコールОскол)と改められた。オスコールとは、ロシア・ウクライナを流れるドネツ川の支流であるオスコール川による。練習艦とするために受けた改修により、艦にはジャイロコンパス、測程器、音響測定儀、電波方位測定儀、5 基の磁気コンパスといった新しい航法装置、KVおよびUKV送信機とKVおよびVV受信機からなる通信装置などが搭載された。また、武装としては37 mm自動21 門が搭載された。計画されたレーダーソナー、対化学兵器防護装置などの設置は見送られた。

1950年代初頭の時点では、太平洋海域においてオスコールは同クラスの艦艇の中では特に優れた戦闘能力を持つ艦であったが、中頃にはその装備は旧式化し、残されたのは不遇な運命だけであった。1951年には中期修理が第202造船工場で開始されたが、1953年後期まで作業は行われなかった。1954年3月23日には中期修理の中止が決定され、浮き兵舎に改装するための最小限の作業が実施された。

オスコールは1955年1月1日付けで浮き兵舎(Плавучая казарма)に類別を変更され、同年3月12日付けでPKZ-65ПКЗ-65)に名称を改められた。同年6月2日には標的艦Корабль цель)に類別を変更され、名称もTsL-64ЦЛ-64)に改められた。1965年9月18日付けで再び浮き兵舎に戻され、名称はPKZ-37ПКЗ-37)となった。PKZ-37 は1969年6月4日付けでソ連海軍を除籍され、解体された。

歴代艦長 編集

※『艦長たちの軍艦史』358-359頁による。

艤装員長 編集

  1. 古浜智 中佐:1944年11月20日 -

駆逐艦長 編集

  1. 古浜智 中佐:1944年12月28日 -

脚注 編集

  1. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127800, pp.8
  2. ^ 『第百三戦隊戦時日誌』C08030076100, pp.11
  3. ^ a b 機銃数、電探数は『日本駆逐艦物語』281ページの「あ号作戦後の駆逐艦兵装状況一覧表」による。調査日は1945年1月20日。
  4. ^ 秋月型駆逐艦では水中聴音機は後日装備とされたが、秋月が1943年10月末までに装備していることが確認されているので春月は竣工時から装備済であると推定できる。『秋月型駆逐艦』39ページ・98~99ページ、『日本の軍艦11』158ページによる。
  5. ^ a b c d 福井1993・日本駆逐艦物語、291頁「日本海軍駆逐艦艦名一覧/春月 Harutuki」
  6. ^ 片桐, 355ページ
  7. ^ a b c d e 夕雲型(2015)、82頁「春月(はるつき)」
  8. ^ a b c #ハンディ判艦艇写真集18p.16『秋月型建造工程一覧表』
  9. ^ a b 戦史叢書85巻、273-274頁「概観」
  10. ^ a b c d 福井1993・日本駆逐艦物語、205頁「第6表 秋月型(乙型)一覧表」
  11. ^ a b c d #ハンディ判艦艇写真集18p.33(駆逐艦『秋月型』行動年表)◇春月◇
  12. ^ a b 遠藤, 216ページ
  13. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127800, pp.39
  14. ^ #ハンディ判艦艇写真集18p.27(春月側面写真)
  15. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127800, pp.42,43
  16. ^ 木俣, 191ページ
  17. ^ 『第百三戦隊戦時日誌』C08030075600, pp.5
  18. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127800, pp.44
  19. ^ 『第百三戦隊戦時日誌』C08030075600, pp.11
  20. ^ 『第百三戦隊戦時日誌』C08030075600, pp.6,21,22
  21. ^ 『第百三戦隊戦時日誌』C08030075800, pp.1
  22. ^ a b c d e 戦史叢書85巻、424頁「黄海方面部隊」
  23. ^ 『第百三戦隊戦時日誌』C08030075800, pp.3
  24. ^ 『第百三戦隊戦時日誌』C08030075800, pp.16
  25. ^ 『第百三戦隊戦時日誌』C08030075800, pp.19
  26. ^ a b c 戦史叢書85巻、425-426頁「哨戒線の後退」
  27. ^ 『日本の軍艦11』173ページ
  28. ^ a b 遠藤, 217ページ
  29. ^ #ハンディ判艦艇写真集18p.27(春月雪風写真。1947/1/9撮影)
  30. ^ 『日本の軍艦11』166ページ
  31. ^ Long Lancers/CombinedFleet.com - IJN Haruzuki: Tabular Record of Movement (英語)でも「POSPESCHNY」としている。
  32. ^ 春月がソ連に引き渡された当時、ソ連海軍には「ポスペシュニー」という艦艇は在籍しなかった。1936年に起工し1941年に太平洋艦隊に配備された7号計画型のポスペーシュヌイ(Поспешный)という駆逐艦があり、この艦は1955年まで太平洋艦隊に在籍していたが、竣工前の1940年レシーテリヌイРешительный)と改称されていた。同じ艦隊所属の先代艦の名称が春月に受け継がれた可能性は否定できないが、日本から引き渡された駆逐艦はいずれも「V」で始まる名称を与えられており、春月に限って「R」で始まる名称を与えられたとは考えにくい。大戦中や冷戦期の情報は錯綜していたため、西側ではレシーテリヌイの旧称と春月の改称後の名称を混同した可能性もある

参考文献 編集

  • 遠藤昭『高角砲と防空艦』原書房、1975年
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0386-9
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1994年、ISBN 4-8099-0192-0
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫 著、阿部安雄・戸高一成/編集委員 編『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本駆逐艦物語』 第5巻、光人社、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。 
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦11 駆逐艦II』光人社、1990年、 ISBN 4-7698-0461-X
  • 雑誌『丸』編集部 編『ハンディ判日本海軍艦艇写真集18 駆逐艦秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型』光人社、1997年11月。ISBN 4-7698-0819-4 
  • 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6 
    • (73-83頁)戦史研究家落合康夫『艦名別秋月型駆逐艦十二隻の生涯』
    • (332-338頁)戦史研究家伊達久『丁型駆逐艦船団護衛ダイアリィ 松型十八隻と橘型十四隻の太平洋戦争
  • 「歴史群像」編集部『歴史群像 太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦』(学習研究社、1999年) ISBN 4-05-602063-9
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十二月一日至昭和十九年十二月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和二十年一月一日至昭和二十年一月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127800
  • 第百三戦隊司令部『自昭和二十年一月二十日至昭和二十年一月三十一日 第百三戦隊戦時日誌』『自昭和二十年二月一日至昭和二十年二月二十八日 第百三戦隊戦時日誌』(昭和20年1月20日~昭和20年3月31日 第103戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030075600
  • 第百三戦隊司令部『自昭和二十年三月一日至昭和二十年三月三十一日 第百三戦隊戦時日誌』(昭和20年1月20日~昭和20年3月31日 第103戦隊戦時日誌(2)(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030075700、C08030075800
  • 第百三戦隊司令部『自昭和二十年四月一日致昭和二十年四月三十日 第百三戦隊戦時日誌』(昭和20年4月1日~昭和20年4月30日 第103戦隊戦時日誌(1)(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030076100、C08030076200

外部リンク 編集

関連項目 編集