桂 文都(かつら ぶんと)は、上方落語名跡。当代は7代目であり、月亭文都(つきてい ぶんと)を名乗る。


四代目 かつら 文都ぶんと
本名 梅川 正三郎
生年月日 1894年
没年月日 1945年5月25日
出身地 日本の旗 日本
師匠 三代目桂文都
名跡 1. 桂都司男
2. 二代目桂玉輔
(1916年 - ?)
3. 四代目桂文都
(1925年 - ?)
4. 桂文鈐
(? - 1945年)
活動内容 上方落語
家族 三代目桂文都(父)
所属 反対派
三友派
大八会

四代目 桂 文都1894年[1] - 1945年5月25日)は、本名∶梅川 正三郎

経歴 編集

3代目文都の実子で、大正初期に父の門下となる。都司男の名で反対派に所属、1916年頃に2代目玉輔と改名。このころ、父の属していた三友派に移籍し、若手の勉強会「つぼみ会」などに出演していた。

1922年大八会に移籍。このころから上方落語が凋落期に入り、動向が分からなくなるが、昭和初期に大阪を離れて各地を廻っていたころ、1925年ごろに4代目文都を襲名、後に東京で漫才に転向し妻を相方に「梅川玉輔・梅奴」となった、1944年3月10日または5月25日東京大空襲で亡くなった[1]。『落語系圖』には「文鈐」(「文鈴」の誤植か?)の名で記されているが、その襲名順は不明。

父と同じく大酒飲みとして知られた。SPレコードに『動物園』を玉輔時代に吹き込んだものが残されている。その他にも『味噌蔵』や、父親譲りの『子別れ』『立ち切れ線香』も高座に掛けていた。

出典 編集

  • 『落語系圖』(月亭春松編)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)

脚注 編集

  1. ^ a b 神保喜利彦 (2023年4月3日). “東京漫才を彩った人々 梅川玉輔・梅奴”. 東京漫才のすべて. 2023年4月3日閲覧。