木下 俊長(きのした としなが)は、豊後国日出藩3代藩主。官位は従五位下右衛門大夫、致仕後に内蔵頭に改める。

 
木下俊長
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安元年12月1日1649年1月13日
死没 享保元年9月8日1716年10月22日
別名 通称:右衛門大夫、内蔵頭
戒名 桂峯院英岳宗哲
墓所 大分県速見郡日出町の松屋寺
官位 従五位下右衛門大夫内蔵頭、贈従四位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
豊後日出藩
氏族 木下氏
父母 父:木下俊治、母:安藤氏
兄弟 俊長長治、紹策
正室:朽木稙綱の娘
側室:長沢氏
女(木下公定室)、女(伊東長救室)、俊量、辯之助、女(稲垣重富室)、公福俊保、など
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経歴

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日出若宮八幡神社

慶安元年(1649年)に生まれる。万治元年(1658年)に初めて将軍徳川家綱に拝謁する。

寛文元年(1661年)、父の死去により跡を継ぐ。同年12月、従五位下右衛門大夫に叙任される。

寛文9年(1669年)には日出若宮八幡神社の本殿を、元禄12年(1699年)に渡殿・拝殿を、元禄14年(1701年)に神楽殿を、元禄16年(1703年)に楼門を、宝永5年(1708年)に絵馬殿を建立し、今日の堂宇を完成させた[1]

延宝3年(1675年)、城下の整備に努めた。

天和3年(1683年)、旗本大久保源次郎忠宣が罪を犯したので、幕命により貞享3年(1686年)に赦されるまで身柄を預かる。

のちに農民が治世中に逃散(離散)したことを恥じて自ら反省するために謹慎したが、元禄11年(1698年)に幕府が糾明したところ農民の訴えは事実無根であったとして、出仕を憚ることはないと台命がでた。

宝永4年(1707年)9月12日、家督を長男の俊量に譲って隠居し、享保元年(1716年)9月8日、日出で死去した。享年69。

法号は桂峰院。墓所は大分県速見郡日出町の松屋寺。

大正5年(1916年)、従四位を追贈された[2]

系譜

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脚注

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  1. ^ 「由緒」日出若宮八幡神社
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.41

参考文献

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