村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 1985年9月22日) は、建築史家京都大学名誉教授明石工業高等専門学校名誉教授。工学博士京都帝国大学・1932年)(学位論文「東洋建築系統史論」)。山口県生まれ。

専門は、東洋建築史。中国建築の研究を重点に据え、中国に隣接した地域(インド、イラン、朝鮮など)と日本の関係を広い視野から捉え、建築文化の交渉に関心をむけていた。満州の東洋建築史を大成し、戦後は文化財建造物や遺跡の調査保存に尽力し、解体修理工事組織の近代化のため建築研究協会を設立。桂離宮の修理工事事が最後の仕事になる。京都市埋蔵文化財研究所理事長、京都府文化財保護審議会会長なども歴任。1985年に90歳で死去。

「東洋建築系統の一考察」で1932年に工学博士。主要建築作品に宇治平等院鳳凰堂解体修理1950-56、桂離宮御殿整備工事1972-82など。

人物 編集

建築学そして建築史学の発展の上に大きい業績をあげた。東洋建築史を専攻し中国建築の研究に重点を据えていたが、中国建築だけに限定されないで中国に隣接した地域の、西はインド、イラン、東は朝鮮半島と日本の各建築史を広い視野のなかでとらえ相互の建築文化の交渉に鋭い関心を向けた。かつて建築雑誌(一九六九年一月号)に「東洋建築史研究の展望と課題」について論じ、とくに中国建築の研究の出発から最近にいたるまでの研究進展の課程を明確に跡づけ、後進に今後の研究の方向を示した。中国建築の研究を開拓し、進展に貢献した人物の業績も紹介、同時に欧米人学者や日本人学者として伊東忠太、関野貞、常盤大定の業績も紹介し、国際的な広い視野のもとで中国建築の研究に取り組んでいたことをうかがうことができる。上記三先達につづく研究者の一人として中国建築の研究の道をすすめたが、1924年以降の13カ月を南満州工専教授として大連に本拠を置き、旧満州の建築遺構や遺蹟の現地調査を精力的に進め、そして京都帝国大学教授に就任、居を京都に移してからも終戦まで夏季休暇を利用して毎年のように中国へ出張、山西山東河北の各省の建築遺構に新しい光をあてており、その間に多大の注目される成果を挙げ、中国建築の分野で確固とした地位を築いた。研究対象は中国の都城宮殿仏寺仏塔陵墓回教寺院住宅民俗古瓦石造物など広い範囲におよび、発表された論文は百八十編の多数に上る。戦争終結とその後の新事態の展開のなかでそれまでに蓄積された広くそして深い学識と豊かな経験を活用し多方面に活動。法隆寺の建築の様式成立と造立の問題に新しい見解を示し、法隆寺研究の諸学説の問題点を検討・整理し今後の研究の動向を論じ、さらに法隆寺修理の再出発と推進に熱心に取り組み、終生変わらず法隆寺問題に強い関心をそそいだ。また東洋建築史の体系化に努力、中国建築史、インド建築史、イスラム建築史を著述、在来の研究水準を飛躍的に高めた業績は極めて大きく、文化財保護の新制度の発足と歩みをそろえて日本の文化財建造物の指定、修理に大きく指導力を発揮した。

略歴 編集

受賞歴・叙勲歴 編集

主な著作 編集

  • 「東洋建築系統史論」『建築雑誌』544-545号掲載(1931)
  • 『支那の仏塔』(1940)
  • 『満州の史蹟』(1944)
  • 『大同大華厳寺』(1943)
  • 法隆寺の建築史』(1987)
  • 居庸関』(京都大学工学部,1955-57)、藤枝晃との編著
  • 『東洋建築史』(建築学大系4-Ⅱ)(1957)
  • 『北方民俗の古俗』(1975)
  • 『中国の帝都』(1981)
  • 『法隆寺建築様式論攷』(村田治郎著作集1) 1986
  • 『中国建築史叢考』(村田治郎著作集3) 1988
  • 『奉天昭陵調査報告』満鉄調査課 1929
  • 『満州建築』東学社 1935
  • 『支那の佛塔』冨山房 1940
  • 『満州の史跡』座右宝刊行会 1944
  • 『建築史参考図集西洋編』高桐書院 1947
  • 『村田治郎著作集』全3中央公論美術出版1986-88

参考文献 編集

関連項目 編集