松平忠宝
松平 忠宝(まつだいら ただとみ)は、江戸時代後期の大名。摂津国尼崎藩の第4代藩主。桜井松平家13代当主。官位は従五位下・大膳亮、遠江守。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 明和7年2月22日(1770年3月19日) |
死没 | 文政12年4月14日(1829年5月16日) |
別名 | 銕丸[1]、銕之丞[1]、与一[1] |
神号 | 源忠宝朝臣命[注釈 1] |
戒名 | 高尚院幹誉楽邦道悦[3] |
墓所 | 東京都江東区の霊巌寺[3] |
官位 | 従五位下大膳亮→遠江守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 摂津尼崎藩主 |
氏族 | 桜井松平家 |
父母 | 父:松平忠告、母:松平光雄の娘・吉 |
兄弟 | 忠宝、菅沼定賢、忠得、忠進、平岡頼暢、忠栄、相馬祥胤正室、峻章院、加藤明允正室、本多忠升正室、於鏡の方 |
妻 | 正室:土屋篤直の娘・八百子 |
子 | 忠誨、忠顕、松平乗全正室ら |
略歴
編集明和7年(1770年)2月22日[4][5]、3代藩主・松平忠告の次男として誕生。兄の戌千代が早世しており[1]、天明4年(1784年)10月1日に尼崎藩世嗣として将軍徳川家治に御目見し[1]、同年12月16日に従五位下大膳亮に叙位任官した[1]。
文化2年(1805年)12月10日の父の死去により、文化3年(1806年)2月10日に家督を継いだ。
文化10年(1813年)、病気を理由に家督を次男・忠誨に譲って隠居する[5]。文政12年(1829年)4月14日に死去した[4][5]。享年60[4]。なお、当主の忠誨も間もなく没している。
人物
編集父と同じく谷素外に俳諧を学び[4]、俳人としても知られる[4]。俳号は亀幸(きこう[4])。父の俳句を『一桜井発句集』としてまとめた[5]。
系譜
編集松平忠誨には、弟として松平忠顕がいた[6][7]。忠顕は心の病を患っていたとされ[6]、忠誨の死後、第6代藩主となったのは忠宝の末弟・松平忠栄であった。忠顕は安政5年(1858年)に尼崎に移されて養生することとされたが[6]、忠栄の後継に忠顕を立てようとする動きもあったとされ、忠栄は忠顕の取り扱いに意を払っている[6]。洋画家で尼崎町長から初代尼崎市長を務めた桜井忠剛は忠顕の子である[8][7]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.30。
- ^ “櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
- ^ a b 山下幸子. “松平忠宝”. Web版 尼崎地域史事典. 2021年11月27日閲覧。
- ^ a b c d e f “松平忠宝”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月27日閲覧。
- ^ a b c d 岩城卓二. “藩主の一生”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
- ^ a b c d 岩城卓二. “忠栄と忠興”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
- ^ a b 尼崎市立歴史博物館 地域研究史料室 “あまがさきアーカイブズ”(回答). “尼崎藩最後の藩主櫻井(松平)忠興(ただおき)と、尼崎町長及び初代尼崎市長を勤めた櫻井忠剛(ただかた)の関係を知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2021年11月27日閲覧。
- ^ 大槻晃実. “洋画家 櫻井忠剛”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。