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松浦 信輝(まつら のぶてる、生年不詳 - 天正3年(1575年))は、戦国時代武将。官位は肥前守。通称は、万満、孫八郎、光[1]とも。岸和田城の城主。十河一存の子[2]

目次

家督継承と内訌編集

松浦氏は和泉の国人であり、半国守護であった和泉守護細川家の重臣として和泉国の守護代を務めた。しかし、天文17年(1548年)管領・細川晴元とその重臣・三好長慶が対立すると、岸和田城主の松浦守は、和泉上守護・細川晴貞から離反し三好長慶方についた[3]。松浦守は、弘治年間(1555年~1557年)に亡くなっており、松浦万満(信輝)が実父で長慶の実弟・十河一存と岸和田周防守の後見によりその跡を継いだ。

これに対し、一族であった松浦孫五郎(虎)は反発して根来寺と結び、山間部の蛇谷城を拠点として永禄元年(1558年)に十河一存と戦っており、十河勢は撃退された[4]

その後、永禄4年(1561年)に岸和田城の十河一存が急死し、永禄5年(1562年)河内守護・高屋城主の畠山高政との戦いで長慶の実弟・三好実休も戦死すると(久米田の戦い)、三好家は岸和田城を退去し、代わって和泉守護の細川刑部(晴貞)が復帰したが、すぐに三好家に奪い返されている。

畠山氏との共闘編集

永禄7年(1564年)三好長慶が病死し、三好三人衆と・松永久秀の間で権力争いが始まり、畠山高政が松永方に付くと、永禄9年(1566年)2月、松浦孫八郎(信輝)と和泉国衆は、畠山高政の軍に加わり家原城で三好三人衆軍と合戦し、敗れて岸和田城に篭った[5]。同年8月には、松浦虎が極楽寺に禁制を下しており[6]、松浦孫八郎(信輝)と孫五郎(虎)の争いが続いていた様子が見られる。

その後、松浦光(信輝)が岸和田城を押さえたと見られ、元亀3年(1572年)11月には、久米田池郷と尾生との相論について裁定している[7]。この頃、畠山家では畠山昭高(畠山高政の弟)が城主となって織田信長の妹を娶っており、信輝はそのまま畠山(織田)方について三好三人衆、篠原長房、三好義継、松永久秀らの信長包囲網方と敵対した。

元亀4年(1573年)4月、松浦光(信輝)は十河某を織田信長へ紹介しており、「(織田)信長、柴田修理亮(勝家)へ十河(某)より松肥(松浦肥前守光)を介して河内国若江城攻撃の後援要請を受けたことを通知、河内国若江城を即時攻略すれば十河に(三好)義継知行分の河内半国と摂津国欠郡を「契約」し、もし一度の攻撃で陥落しなくても付城を構築するなどして攻略に成功すれば河内半国を与える」(山崎文書)と約束されている。しかし、若江城は若江三人衆の裏切りにより同年11月に陥落したため、河内は織田家重臣の佐久間信盛が統治した。

この頃には山城や摂津に居た三好三人衆が離散・討死にしている。一方の畠山家では、同年6月に畠山昭高が遊佐信教に暗殺され、三好康長が高屋城に入城したが、天正3年(1575年)4月、織田軍により落城している(高屋城の戦い)。

その後編集

同年12月、松浦光(信輝)が行った織田信長に進物に対して信長より返状が送られているが[8]、同年の間に家臣の寺田又右衛門、寺田安太夫(松浦宗清)兄弟に討たれた。

脚注編集

  1. ^ 『織田権力の領域支配』p.87
  2. ^ 場部隆弘「信長上洛前夜の畿内情勢」(『日本歴史』平成21年9月号)
  3. ^ 『岸和田市史通史編』第2巻、p.624
  4. ^ 『拾遺泉州志』
  5. ^ 永禄9年2月:九条家文書
  6. ^ 『岸和田市史史料編』第7巻p.3、 廣田浩治『中世中後期の和泉国大津・府中地域』表5
  7. ^ 『岸和田市史通史編』第3巻、p.211
  8. ^ 『岸和田市史通史編』第3巻、p.12

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集