畿内・近国の戦国時代

畿内・近国の戦国時代(きない・きんごくのせんごくじだい)では畿内とその近国、おおよそ現在の近畿地方戦国時代について記す。

戦国時代の区分については諸説あるが、この項では狭義の戦国時代の始まりとされる明応の政変が起きた明応2年(1493年)から[1]、戦国時代の下限とされる天正元年(1573年)[2]までを戦国時代として扱う。

目次

概要編集

戦国期の畿内は天皇の許、足利将軍家が統治し管領細川氏が将軍家を輔弼する首都京都を擁する山城守護不設置ながら興福寺が実質的に守護を担う大和天文期に本願寺が大坂に本山を据えることになる摂津、国際貿易港・を要する和泉、三管領家の一つ、畠山氏守護を務める河内の5ヶ国からなり、これらは天下と呼ばれていた。またその周辺の朝廷公家荘園が多く存在した丹波六角氏が支配し足利将軍が戦乱を逃れて度々滞在することになる近江などの近国についてもここに記述する。

戦国期の畿内・近国の政治情勢は、明応~永正期の足利義稙足利義澄による二人の将軍の対立の地方への波及[3]、永禄年間の三好氏と将軍の争いが地方に新たな政治機軸を創出させる等[4]、畿内・近国のみならず日本各地の政治動向にも影響を与えた[5]。また楊弓会事件のように京都が地方の大名の政治抗争の場になるなど、畿内・近国の戦国時代は戦国期日本列島史において重要な位置を占めている。

明応・文亀年間編集

概説編集

 
足利義材
 
細川政元
 
足利義澄

明応2年(1493年)2月、足利義材(義尹、義稙)は畠山基家討伐のために河内に親征を行った。各守護もこれに参加したが、各守護達にとって河内親征は畠山氏の内紛に過ぎず、前年の近江親征に続いての軍事行動は厭戦気分を招いた[6]

4月、管領細川政元日野富子伊勢貞宗と示し合わせて足利義材不在の京都でクーデターを起こした。義材を廃し、新たに14歳の足利義澄(香厳院清晃)を将軍に擁立した(明応の政変)。クーデターが実行されると、河内に在陣していた守護達は各自撤退し幕府軍は瓦解した。

政元は河内に軍勢を派遣し、畠山政長を自害に追い込み義材を龍安寺に幽閉した[注釈 1]。政元は義材を讃岐に配流させようとしたが[7]、義材は畠山氏の守護管国の一つ越中に逃亡し、以後義稙系、義澄系に分かれて政権の座を争う状況が続くことになった。この抗争は地方にも波及し、各地方における抗争の中から戦国大名が生まれていったと考えられており、明応の政変は戦国時代の重要な政治的転機とされている[8][9]

その後、京都の中央政権では政所執事兼山城守護の伊勢貞陸が山城の一円知行を目指し、興福寺衆徒古市澄胤を南山城二郡の守護代に任じて山城国一揆の弾圧に乗り出した。一揆を構成する国人達の中には細川氏と被官関係を結んでいる者もいたが、義材派の反撃が予想される中で同盟者である伊勢氏との対立を忌避した政元は一揆勢を救援せず、山城国一揆は崩壊した[10]。明応4年(1495年)11月、畠山義豊(基家改め)の重臣である遊佐弥六が南山城に進出すると、これを敵視した政元は翌明応5年(1496年)8月、配下の赤沢朝経を山城に侵攻させ弥六を撤兵させた。翌明応6年(1496年)、政長の息子である畠山尚順が挙兵すると、これに危機感を抱いた政元と貞陸が歩み寄り、南山城三郡の守護代を朝経が、北山城五郡の守護代を政元の重臣である香西元長が務め、守護伊勢氏を細川氏の軍事力が支えるという体制が確立された。

北陸に逃れた義材は再上洛を目指したが、内衆の中では和睦上洛派と武力上洛派とで路線対立が存在していた。明応7年(1498年)春、義材は畿内に使者を派遣し帰洛交渉を行ったが不調に終わり[11]、武力により上洛を目指すことで意見が一致した。明応8年(1499年)、義尹(義材改め)は朝倉貞景らの助力を得て上洛作戦を実行に移した。南方では尚順が紀伊から河内に進出。義尹も貞景とともに近江まで南下し京都に迫ったが11月、六角高頼が義尹軍に勝利し敗れた義尹は周防に逃亡した。12月には尚順も政元勢に敗れ紀伊に逃れた。

同性愛者で子供のいない政元には後継者がいなかった。そこで文亀2年(1501年)、九条政基の子を養子とした(細川澄之)。しかし阿波の内衆から異論が出されたため、阿波守護・細川義春の子、細川澄元も養子に迎えた。こうして政元は二人の後継者を抱えることになった。

年表編集

明応2年(1493年)

明応3年(1494年)

  • 5月7日 京都・大和で地震。
  • 12月27日 足利義澄、征夷大将軍に宣下。

明応4年(1495年)

 
宗祇

明応5年(1496年)

 
蓮如
  • 8月 赤沢朝経、山城に侵攻[20]
  • 9月 蓮如大坂御坊建立。
  • 9月 足利義澄、加賀国人一揆に足利義材の上洛の妨害を指示[21]
  • 10月 弥六、南山城から撤兵[20]

明応6年(1497年)

  • 4月 幕府、銭納方の条規を定める。
  • 9月 畠山尚順、河内守護・畠山義豊(基家改め)打倒を目的に紀伊で挙兵[22]

明応7年(1498年)

  • 5月29日 丹波で国人一揆。守護・一色義秀攻められ自害。
  • 6月11日 近畿・東海で地震が起こる[23]。 
  • 8月25日 明応地震発生。紀伊・伊勢、津波に見舞われる[24]
  • 9月 足利義尹(義材改め)、越前の朝倉貞景を頼る[25]
  • 9月 義尹、大内義興に周防下向の意志を伝達[26]
  • 11月 義興、義材の周防下向への対応のため、出陣先の豊前から撤退[26]
  • 11月 乙訓で惣国一揆起こる。

明応8年(1499年)

  • 1月30日 畠山義豊、畠山尚順に敗れ自害[27]
  • 3月25日 蓮如没。
  • 5月 京都、洪水に見舞われる[16]
  • 7月11日 延暦寺僧徒が足利義尹に呼応し出陣。細川政元、反撃し根本中堂炎上(比叡山焼き討ち)。
  • 7月20日 足利義尹・朝倉貞景、上洛のため軍を起こす[28]
  • 9月 細川政元、尚順と河内で合戦。
  • 11月22日 六角高頼、坂本まで南下の義尹を攻撃。義尹敗走し周防の大内義興を頼る。
  • 12月18日 古市澄胤の先導により、赤沢朝経が大和に侵攻[29]
  • 12月20日 政元と義尹派の尚順、天王寺で合戦。尚順、紀伊に逃亡。
  • 12月 義尹、周防・山口に到着。

明応9年(1500年)

明応10年/文亀元年(1501年)

  • 2月29日 文亀改元。
  • 3月28日 九条政基、和泉・日根野荘へ下向。
  • 5月 本圀寺妙興寺の僧、宗論を行う[16]
  • 6月 足利義尹、諸国に出兵を呼びかける[25]
  • 閏6月10日 幕府、大内義興追討の綸旨を賜る[31]
 
三条西実隆

文亀2年(1502年)

  • 5月15日 村田珠光没。
  • 5月 興福寺、奈良に撰銭令を発布。
  • 7月30日 宗祇、東国を旅行中相模で客死。
  • 7月 大友親治、足利義澄に「大将」の派遣を求める[30]
  • 9月 細川政元、九条政基の子を養子にする。

文亀3年(1503年)

  • 5月 細川政元、細川義春の子細川澄元を養子にする。
  • 5月 土佐光信、「北野天神縁起絵巻」を描く。
  • 6月18日 六角高頼、政元の仲介により守護代・伊庭六郎と和睦[34]

永正年間編集

概説編集

 
細川澄元

細川政元の後継問題は政変に発展した。永正4年(1507年)6月、細川澄之が政元を暗殺。その澄之を細川澄元方についた細川典厩家の細川高国が襲撃し澄之は死亡した。こうして澄元は京兆家の家督を相続することになった。

京都での政治的混乱は、足利義尹にとって京都への復帰を果たす絶好の機会が到来したことを意味した。義尹は同年中に上洛を決意し翌永正5年(1508年)4月、周防守護・大内義興、伊予守護・河野通宣[35]など中国・四国の領主たちとともに堺に上陸を果たした。この動きに澄元との関係が悪化していた高国が合流。不利を悟った澄元は、将軍の足利義澄とともに近江に出奔した。7月、義尹は上洛し将軍に復帰。高国は京兆家の家督を相続した。

永正8年(1511年)、義澄と澄元は大規模反抗作戦を開始した。澄元は阿波から上洛し高国・義興連合軍と一戦に及んだ。しかし義澄はそれ以前に近江で死亡しており、奉るべき主君がいない中行われた船岡山合戦で澄元は大敗し、阿波に敗走した。

船岡山合戦の勝利で義尹政権は安定状態に入った。義尹は新たに御所を建設。義興は伊勢参りをするなど京都は落ち着きを取り戻した。

 
細川高国

永正15年(1518年)8月、大内義興が帰国すると細川家内に確固たる支持基盤を持たない高国の立場の不安定さが露わになり、義稙(義尹改め)政権は動揺した[36]。11月には阿波に逼塞していた澄元が摂津に渡海し、高国と澄元との間で摂津を舞台に抗争が始まった。戦いは澄元勢が優勢で永正17年(1520年)、澄元が摂津・越水城を攻略すると義稙と高国は近江に出奔した。だが義稙は途中で高国と別れ京都に帰還し、澄元と単独で和睦した。義稙は澄元に京兆家の家督相続を承認し、各国の守護に任命するなど高国から澄元に乗り換えようとした。しかし義稙のこの決断は失敗に終る。

5月、高国は六角定頼とともに京都に侵攻し、澄元勢の主力である三好之長等持院で破り自害させた(等持院の戦い)。澄元も6月に阿波で病没し、義稙は高国と和睦した。しかし、一度破綻した両者の関係を修復するのは難しく、永正18年(1521年)義稙は阿波に出奔し政権を失った。高国は義稙に代わって、新たに足利義晴を将軍として擁立することになった。

永正18年3月、後柏原天皇は践祚後21年目にして即位礼を行った。この践祚から即位礼まで21年も間隔があいた事について、以前は朝廷衰微、幕府財政の困窮の象徴のように語られていたが、時々の政治情勢に影響された結果であることが明らかになっており[37]、現在ではこの説は否定されている。

年表編集

文亀4年/永正元年(1504年)

永正2年(1505年)

永正3年(1506年)

  • 1月 細川政元、一向一揆を動員し河内の畠山尚順・畠山義英を攻撃[41]
  • 7月 足利義澄派の本願寺実如、近畿・東海・北陸で一向一揆を蜂起させる。足利義尹派の越前・朝倉貞景、越中・畠山尚順、越後上杉房能長尾能景、河内・畠山義英らを攻撃[42]
  • 12月22日 土佐光信、朝倉貞景の求めに応じて「京中図屏風」を製作。「洛中洛外図屏風」の先駆[43][28]

永正4年(1507年)

  • 4月 細川政元、丹後に出馬も同月中に帰洛[44]
  • 4月13日 細川澄元、若狭に下向[28]
  • 4月27日 若狭守護・武田元信、丹後に出兵[28]
  • 6月24日 細川澄之、養父の政元を殺害。澄元、近江に出奔(永正の錯乱)。
  • 7月8日 澄元、丹波から上洛。
  • 7月 大友親治、足利義澄に再度「大将」の派遣を求める[45]
  • 8月1日 細川高国、澄之を攻撃。澄之自刃。
  • 8月2日 澄元、京兆家家督を相続。
  • 11月25日 足利義尹、大内義興らが供奉し上洛を目的に山口を出発[46][31]

永正5年(1508年)

  • 1月 畠山尚順、細川澄元と合力し畠山義英を嶽山城から追放。
  • 2月23日 足利義澄、九州の大名に大内義興の討伐を指示[31]
  • 2月 義澄、諸国の大名に出兵を求める[47]
  • 2月 足利義尹、安芸まで進出。
  • 3月 高国、澄元と不和になり伊賀に出奔[48]
  • 4月9日 義澄と澄元、近江に逃れる。
  • 4月10日 高国上洛。
  • 4月16日 義澄、将軍解官。
  • 4月27日 義尹・義興、堺に上陸。
 
尋尊
  • 5月2日 大乗院尋尊没。
  • 5月6日 高国、義尹に京兆家家督の相続を承認される。
  • 6月8日 義尹・義興、堺から上洛。
  • 7月1日 義尹、将軍宣下。
  • 7月26日 尚順、高屋城を攻めていた義澄派の赤沢長経・古市澄胤を破る。澄胤は敗死。
  • 8月11日 義尹、畠山尚順宿所に御成。高国・義興反発し途中退席[49]
  • 8月 幕府、京都で撰銭令。

永正6年(1509年)

 
大内義興
  • 6月17日 如意ヶ嶽の戦い。細川澄元・三好之長と細川高国・大内義興が交戦。澄元・之長敗走。
  • 10月 足利義尹、就寝中に斬り付けられる。

永正7年(1510年)

  • 8月8日 畿内で大地震発生。
  • 10月14日 足利義尹、大内義興の宿所に御成[50]

永正8年(1511年)

  • 3月 足利義澄、播磨守護・赤松義村足利義晴の養育を託す。併せて細川澄元に足利義維の養育を託す[51]
  • 7月 細川澄元、阿波で挙兵。上洛を図る。
  • 8月14日 足利義澄死去。
  • 8月23日 船岡山合戦。澄元、細川高国・大内義興勢に敗れ阿波に敗走。
  • 9月21日 京都で徳政一揆が起こる[52]
  • 9月27日 幕府、京都に徳政令を発布[52]

永正9年(1512年)

  • 1月 大内義興麾下の安芸・石見の国衆の多くが京都より帰国[31]
  • 4月16日 足利義尹、細川高国邸御成[53]

永正10年(1513年)

  • 2月 足利義尹、足利義澄の子・足利義晴と和睦。
  • 3月17日 義尹、細川高国と大内義興の専横に怒り近江に出奔[31]
  • 5月 義尹帰洛。
  • 11月 義尹、義稙に改名。

永正11年(1514年)

  • 2月 近江・六角氏の守護代・伊庭氏が出奔[54]

永正12年(1515年)

  • 7月 足利義稙、三条高倉に御所の造営を始める。
  • 12月 義稙の御所が完成。

永正13年(1516年)

  • 4月 足利義稙、大内義興に渡唐船の管掌を任せる。
  • 8月 義興、伊勢神宮に参拝[55]

永正14年(1517年)

  • 10月 三好之長、淡路に侵攻。淡路守護・細川尚春、堺に出奔。
  • 閏10月 足利義稙、有馬温泉で療養する[16]

永正15年(1518年)

永正16年(1519年)

  • 11月21日 高国、澄元・之長討伐のため山城・摂津・丹波衆を率いて摂津に出陣[52]
  • 11月 細川澄元・三好之長、阿波から渡海し兵庫に上陸。摂津・越水城を攻撃[57]
  • 11月 赤松義村、再度三石城の浦上村宗を攻撃[58]

永正17年(1520年)

  • 1月12日~ 京都で徳政一揆が起こる[52]
  • 2月12日 幕府、京都に徳政令を発布[52]
  • 2月 細川澄元・三好之長、越水城を攻略。
  • 2月 細川高国、近江・坂本に逃亡。
  • 2月 足利義稙、澄元の京兆家家督を承認。摂津・丹波・讃岐・土佐の守護に補任[57]
  • 3月7日 紀伊で大地震が起こる。
  • 3月8日 幕府、京都に徳政令を発布。信用取引に関する成文法の初見[59]
  • 3月27日 之長、2万の軍勢で上洛。
  • 5月4日 高国、京都で之長を破る(等持院の戦い)。
  • 5月11日 之長、曇華院で処刑される。
  • 6月10日 澄元、阿波で死去。
  • 7月 京都で歌舞が流行する[31]
  • 8月 畠山尚順、内衆との戦いに敗れ紀伊から追放される[60]
  • 12月26日 赤松義村、足利義晴とともに明石に出奔[61]

大永・享禄年間編集

概説編集

 
足利義晴

大永5年(1525年)4月、細川高国は子の細川稙国に家督を譲り、14歳の将軍・足利義晴を18歳の管領・細川稙国が補佐する新体制が発足した。しかし10月に稙国が病没したため、高国が政務に復帰することになった。

大永6年(1526年)9月、高国は家臣の香西元盛を、阿波の細川晴元への内通を疑い自害させた。これに元盛の兄弟の柳本賢治波多野稙通が高国に強く反発し晴元と共闘するようになった。この好機に晴元は兵を起こし12月には堺に軍を派遣。高国が賢治に敗れ義晴とともに近江に出奔すると、自身も大永7年(1527年)3月に足利義維とともに堺に上陸した。義維は京都の警固を柳本・波多野兄弟に任せ、自らは堺に留まったため堺公方、堺大樹と呼ばれた。

10月、義晴と高国は六角定頼、朝倉宗滴とともに京都奪還作戦を開始した。しかし晴元方も丹波勢や三好元長を上洛させたため戦局は膠着状態に陥った。晴元方の元長と高国方の宗滴が和睦調停を試みたが失敗に終わり[62]、不利を悟った高国は大永8年(1528年)5月、義晴と再度近江に逃れた。

その後高国は伊賀の仁木氏、伊勢の北畠氏、出雲の尼子氏などに支援を依頼したがいずれも不首尾に終わった。しかし播磨守護代の浦上村宗が支援を確約し、享禄3年(1530年)、高国は村宗と反抗作戦を開始し、摂津の諸城を攻略していった。これに近江の義晴・六角定頼も呼応し上洛を目指したが、晴元方の木沢長政や丹波勢らに阻まれ入洛することができなかった。

摂津戦線では高国・村宗が戦いを優位に進め、義維・晴元方は劣勢に立たされた。そこで晴元は阿波から三好元長を渡海させ、高国・村宗勢と対峙させた。元長は計略を働き高国・村宗軍に従軍していた播磨守護・赤松政村を高国・村宗方から離反させることに成功した。元長は弱体化した高国・村宗軍を天王寺の戦いで破り村宗は戦死し、逃れた高国も尼崎でとらえられ自害させられた。義晴・六角勢も近江に退き、義維と晴元は堺で政権を維持することに成功した。

高国を討伐した堺政権だが、今度は政権内で晴元と元長の関係が悪化し抗争が始まった。享禄5年(1532年)、晴元は本願寺・証如と同盟を結び、一向宗を動員し堺の義維方の攻撃に向かわせた。21万という驚異的な軍勢[63]に包囲されるなか元長は自刃。義維も晴元方に捕らえられ堺政権は崩壊した。

年表編集

永正18年/大永元年(1521年)

  • 1月28日 赤松義村、浦上村宗方の御着城を攻撃[64]
  • 2月12日 高野山金剛峯寺で大火[16]
  • 3月18日 足利義稙、淡路に移座。
  • 3月22日 後柏原天皇、践祚後21年目にして即位式を行う。
  • 4月 赤松義村と浦上村宗が和睦[64]
  • 7月6日 足利義澄の遺子足利義晴、細川高国に擁立され上洛。
  • 8月23日 大永改元。
  • 9月17日 村宗、義村を殺害。
  • 10月 山城で大地震[16]
  • 11月4日 高国、丹波・柳本賢治の討伐を企図[65]
  • 11月30日 高国方、丹波で敗れる[65]
  • 12月1日 幕府、京都に徳政令を発布[65]
  • 12月25日 足利義晴、将軍宣下。

大永2年(1522年)

大永3年(1523年)

  • 4月9日 足利義稙、阿波で死去。
  • 4月 細川高国と大内義興の遣明使、寧波で争う(寧波の乱)。
  • 10月 山名誠豊、但馬から撤退[66]
  • 12月16日 足利義晴、播磨守護代・浦上村宗の宿所に御成[67]

大永4年(1524年)

大永5年(1525年)

  • 4月14日 細川高国、家督を細川稙国に譲る。高国出家。
  • 5月19日 浅井氏攻撃中の六角定頼を支援するため、越前の朝倉宗滴が近江に出兵[28]
  • 6月 、幕府に寧波の乱を起こした大内方正使・謙道宗設らの捕縛と、乱時に拉致された明方の官人・袁縫の送還を求める[68]
  • 10月23日 稙国病没。高国、政務に復帰。

大永6年(1526年)

  • 4月7日 後柏原天皇崩御。
  • 4月27日 後奈良天皇践祚。
  • 7月12日 細川高国、香西元盛を自害させる。丹波勢反発[69]
  • 10月21日 丹波勢挙兵。高国に背き細川晴元に通じる。
  • 11月30日 高国、丹波征伐のため細川尹賢を派遣するも敗北。
  • 12月14日 足利義維・細川晴元・三好元長、阿波より摂津に兵を渡海させる[70][71]
  • 12月26日 若狭・武田元光、細川高国の出兵要請に応じて上洛[28]
  • 12月27日 高国、細川晴国細川氏綱を元服させる。
  • 12月 幕府、徳政令を出す[16]

大永7年(1527年)

  • 2月 細川高国勢、細川晴元方の柳本賢治に敗れる。足利義晴・高国、近江に出奔(桂川原の戦い)。
  • 3月22日 細川晴元、足利義維を擁し堺に上陸[70]
  • 10月 義晴・高国、六角定頼朝倉教景の支援を得て5万4千の軍勢で上洛[70]
  • 11月 晴元方の賢治ら丹波勢上洛[72]
  • 12月 三好元長、阿波より上洛[73]

大永8年/享禄元年(1528年)

  • 5月14日 細川高国、坂本に逃れる。
  • 5月28日 足利義晴、坂本に出奔。
  • 7月 阿佐井野宗瑞、「医書大全」を開板[74]
  • 7月 京都、炎暑に見舞われる[16]
  • 8月20日 享禄改元。
  • 9月8日 義晴、近江・朽木に移座。
  • 11月 高国、伊賀の仁木義広を頼る。

享禄2年(1529年)

  • 2月16日 清原宣賢、越前に下向[28]
  • 6月 細川高国、若狭に逃れる[28]
  • 9月 浦上村宗、細川高国の支援要請を受諾。

享禄3年(1530年)

  • 2月 柳本賢治、京都二条で勧進猿楽を行う[16]
  • 6月29日 賢治、播磨で殺害される。
  • 12月 幕府、徳政令を出す。

享禄4年(1531年)

天文年間編集

概説編集

天文元年(1532年)6月に堺政権を崩壊させた一向宗徒たちの活動は、歯止めの利かない状態になり畿内は騒乱状態に陥った。細川晴元は六角氏、法華宗徒を動員し一向宗徒たちの討伐に当たらせた。この対応は成功し、翌天文2年(1533年)6月、晴元と本願寺・証如は和睦し一向宗徒の活動は終息に向かった。

天文元年の一向宗の討伐以降、京に多くの信徒を抱える法華宗の宗徒たちが京都を実質的に支配し洛中の警固を担っていた[76]。一方で同じく京に多くの門徒を抱える山門(比叡山)との関係に軋轢が生じていた。天文5年(1536年)3月、山門僧が京都で法華宗徒と宗論を行い敗れる事件が起こり、法華宗と山門との対立が決定的になった。7月、山門と六角氏が洛中の法華宗寺院を攻撃し、下京は全焼し上京も1/3が焼亡した[77](天文法華の乱)。8月なって坂本から足利義晴が上洛。9月には晴元も芥川山城から上洛し義晴と和睦。京都は再び武家政権の支配するところとなった。

 
三好長慶

天文10年(1541年)、畠山氏の被官で、晴元の被官でもあった木沢長政が義晴・晴元に対して反旗を翻したが、天文11年(1542年)3月17日、同じく晴元被官の三好長慶が摂津で長政を討ち取り、長政の反乱は失敗に終わった(太平寺の戦い)。

天文12年(1543年)、細川高国の後継を標榜する細川氏綱が和泉・槙尾寺で挙兵。氏綱は晴元が派遣した長慶に堺で敗れるものの、以降も河内守護・畠山稙長、河内守護代・遊佐長教と共闘し晴元と戦い続けた。天文16年(1547年)7月、晴元方の長慶と氏綱方の長教が摂津・舎利寺で合戦を行い長慶方が勝利した。敗れた氏綱方は勢いを失ったかに見えたが、天文17年(1548年)10月、晴元との関係が悪化した長慶が晴元方から離反し、氏綱方に転向したため氏綱勢は勢力を取り戻した。

その後晴元、氏綱・長慶の両者は摂津を中心に抗争を続けたが、天文18年(1549年)6月長慶方の十河一存が、晴元方の三好政長を摂津・江口で破り(江口の戦い)、敗れた晴元は義晴とその嫡男で、天文15年(1546年)に将軍位を譲られていた義輝とともに近江に出奔。長慶は政権の主導権を握ることに成功した。

近江に逃れた義輝は、天文19年(1550年)に東山に中尾城を築くなど反長慶の戦いを続けたが、京都を奪回することは出来なかった(中尾城の戦い)。結局義輝は長慶と和睦することになり、天文21年(1552年)1月、6年ぶりに帰洛した。長慶も2月になって氏綱とともに上洛し義輝に出仕した。しかし両者の間は良好といえず、天文22年(1553年)3月義輝と長慶の関係は決裂した。義輝は京都郊外の東山霊山城に入城。さらに反長慶の戦いを続けていた晴元を赦免し、晴元方の丹波勢を動員し長慶と交戦状態に入った。対する長慶も四国から一族を渡海させ兵力の増強を図り義輝に対抗した。8月1日、長慶は東山霊山城を攻め落とし、敗れた義輝は近江・朽木に逃れた(東山霊山城の戦い)。

年表編集

享禄5年/天文元年(1532年)

 
証如
  • 6月20日 証如、細川晴元の求めに応じて堺に出兵。三好元長、堺・顕本寺で自害[78]
  • 6月 畠山義尭、一向一揆に攻められ誉田城で自刃[75]
  • 6月 足利義維、細川晴元に拘束される。「堺幕府」崩壊[79]
  • 7月 大和で一向宗徒と興福寺宗徒が合戦。
  • 7月29日 天文改元。
  • 8月4日 晴元方の木沢長政、一向宗の摂津・浅香道場を放火[80]
  • 8月17日 足利義晴、桑実寺に「桑実寺縁起絵巻」を奉納[81]
  • 8月23日 晴元方の六角氏・法華宗徒、山科本願寺を攻撃。山科本願寺焼亡。証如、大坂に逃れる(山科本願寺の戦い)。
  • 9月7日 山崎口で法華宗徒・丹波勢が一向宗徒・摂津勢と交戦。一向宗徒・摂津勢勝利。
  • 9月12日 細川晴国、丹波・鞍馬口に着陣。
  • 10月 京都近郊で半済実施運動が起こる[82]
  • 12月 京都で徳政一揆起こる[16][82]
  • 12月 摂津勢、一向宗から離反。

天文2年(1533年)

  • 2月10日 細川晴元、一向宗徒に敗れ淡路に逃亡。
  • 3月 木沢長政と法華宗徒、摂津・伊丹城で一向宗徒を破る。
  • 4月 法華宗徒、大阪本願寺を攻撃。
  • 4月 足利義晴、阿波守護・細川持隆に出兵を要請。阿波勢渡海[83]
  • 5月26日 細川晴国勢、高雄に着陣。
  • 5月 晴元、淡路から渡海。木沢長政・法華宗徒と合流し大坂本願寺を攻撃。
  • 6月18日 晴元勢、晴国勢を攻めるも敗北。
  • 6月20日 晴元と本願寺・証如和睦[84]
  • 12月 晴国・丹波勢、再上洛を目指す。

天文3年(1534年)

  • 5月 細川晴元と本願寺の和睦が破れる。
  • 8月 木沢長政、河内守護の畠山稙長を追放。
  • 9月3日 足利義晴、六角定頼に供奉されて坂本より上洛。
  • 12月 足利義晴、大内義隆大友義鑑の和睦を図る。

天文4年(1535年)

  • 11月 細川晴元と本願寺、再度和睦する。

天文5年(1536年)

  • 1月 証如、山科道場を再興[16]
  • 3月 京都・一条で叡山僧・華王房と法華宗徒・松本新左衛門久吉が宗論を行い華王房が論破される(松本問答)。
  • 6月26日 木沢長政、信貴山城を築く[85]
  • 6月29日 大和・長谷寺、焼亡する[86]
  • 7月22日 天文法華の乱起こる。延暦寺宗徒と六角氏、洛中の法華宗寺院を攻撃。上京1/3焼失、下京全焼[87]
  • 8月29日 細川晴国、家臣の裏切りにより天王寺で自害。
  • 9月24日 細川晴元上洛。三好長慶・木沢長政・波多野秀忠を共として足利義晴に出仕[88]
  • 閏10月 晴元、法華宗徒の洛中徘徊と寺院再興を禁止[16]
  • 11月 晴元、長慶邸に御成[89]

天文6年(1537年)


天文7年(1538年)

天文8年(1539年)

  • 4月 阿波細川氏、赤松氏救援のため播磨に出兵[83]
  • 6月 三好長慶、細川晴元に河内十七箇所の代官職を望むも拒否され関係が悪化。
  • 7月 幕府、土倉の要求を受け入れ徳政を停止[16]
  • 7月 晴元・三好政長と長慶、京都郊外で対陣。
  • 7月 晴元と長慶、足利義晴と六角定頼の仲介により和睦[93]
  • 8月 近畿で大洪水[16]
  • 10月18日 足利義晴、定頼邸御成[94]

天文9年(1540年)

天文10年(1541年)

  • 8月 細川晴元、三好長慶と三好政長に、塩川国満の摂津一庫城攻撃を指示。木沢長政、塩川氏に味方する。
  • 10月 長政、京都に向け進軍。足利義晴・晴元出奔。
  • 12月 晴元、長政討伐のため摂津に出陣。

天文11年(1542年)

  • 3月17日 太平寺の戦い。三好長慶と木沢長政が合戦。長政敗死。
  • 3月 足利義晴帰洛。
  • 4月 幕府、撰銭令を発布[16]
  • 10月 池坊専応、「専応口伝」を著す[16]
  • 11月 法華宗二十一ヵ寺、帰洛を許される[16]

天文12年(1543年)

天文13年(1544年)

  • 7月 畿内で大風雨、洪水が発生[16]
  • 9月 宗牧、東国へ旅立つ。

天文14年(1545年)

  • 5月 細川晴元、細川氏綱を宇治で破る。
  • 5月 畠山種長死去。
  • 9月22日 宗牧、下野・佐野で客死。

天文15年(1546年)

  • 8月 細川晴元、細川氏綱・畠山勢討伐のため三好長慶を堺に派遣。
  • 8月 堺の会合衆、長慶と氏綱の和睦を仲介。長慶撤退[97]
  • 8月 長慶、讃岐の十河一存・淡路の安宅冬康を渡海させる[97]
  • 9月 氏綱、摂津・大塚城を攻落。
  • 10月 京都で土一揆発生。幕府、徳政令を出す。
  • 10月 長慶、堺で氏綱・畠山勢に包囲される。阿波細川氏、長慶救援のため堺に渡海[83]
  • 12月 足利義晴、子の足利義輝に将軍職を譲る。朝廷、義晴を右大臣に補任。

天文16年(1547年)

  • 2月 三好長慶、摂津掃討戦を開始。
  • 3月 足利義晴と足利義輝、細川晴元と対立し将軍山城に入る。
  • 7月19日 義晴、将軍山城を自焼し坂本に退く。
  • 7月21日 舎利寺の戦い。長慶と細川氏綱方の遊佐長教が合戦。長教敗走。
  • 7月29日 義晴と晴元・六角定頼が和睦[93]

天文17年(1548年)

  • 4月 細川晴元と遊佐長教、六角定頼の仲介により和睦[98]
  • 6月7日 足利義晴、坂本から帰洛[99]
  • 10月28日 三好長慶、細川氏綱方に転じる[100]
  • 10月 長慶、遊佐長教と同盟を組む。

天文18年(1549年)

  • 4月 細川晴元、六角定頼の協力を取り付けた上で摂津に出陣。
  • 6月24日 江口の戦い。三好長慶、晴元方の三好政長を敗死させる。
  • 6月27日 足利義晴・足利義輝・晴元、坂本に出奔[101]
  • 7月9日 細川氏綱と長慶上洛。氏綱、細川家の家督を相続[101]
  • 12月11日 六角氏、近江・枝村惣中に楽市令を発布。楽市文言の初出[102]

天文19年(1550年)

  • 2月 足利義晴、中尾城を築く。
  • 5月4日 義晴、坂本で死没。
  • 7月8日 義輝方の細川晴元、東山に進出。
  • 7月12日 清原宣賢、越前で没[28]
  • 7月 三好長慶と阿波勢が上洛。晴元勢と対峙。
  • 7月 京都郊外で三好勢と晴元勢が小競り合い。鉄砲が使用され三好方の1名が死亡。戦場における鉄砲使用の早期の例[103]
  • 8月16日 摂津の有馬村秀、寺内町誘致のため名塩・木下の両村を教行寺に寄進[104]
  • 10月20日 長慶の摂津勢、上洛。
  • 11月19日 長慶、4万の勢力で上洛。
  • 11月21日 中尾城の戦い。義輝、近江に逃走。

天文20年(1551年)

 
フランシスコ・ザビエル
  • 1月 フランシスコ・ザビエル上洛。
  • 2月 足利義輝、朽木に移座。
  • 2月7日 三好方の松永長頼、近江に侵攻も山岡氏に敗れる[105]
  • 3月14日 三好長慶、斬り付けられ大山崎に避難。
  • 3月15日 晴元方の丹波勢上洛。
  • 5月5日 遊佐長教、暗殺される。
  • 7月 相国寺の戦い。三好方の松永兄弟率いる摂津・大和勢4万が、相国寺に陣取る晴元方の丹波勢を攻撃。丹波勢撤退。相国寺炎上。

天文21年(1552年)

  • 1月2日 六角定頼没。子の六角義賢、跡を継ぐ。
  • 1月28日 義賢、足利義輝と三好長慶の和睦を仲介。義輝上洛。畿内の領主達数千人が出迎える[106]
  • 2月26日 細川氏綱・長慶上洛し義輝に謁見。
  • 2月31日 氏綱、義輝に細川家家督相続を承認される。
  • 2月 上・下京衆、勧進猿楽を行う[16]
  • 3月 細川晴元、若狭に出奔。
  • 4月 長慶、晴元方の丹波・波多野元秀を攻めるが敗北。
  • 8月29日 長慶、芥川山城に入城。
  • 8月 晴元と長慶が和睦。晴元、嫡男の六郎を長慶に預ける[107]
  • 9月 晴元、丹波に出奔。
  • 11月 義輝、晴元の上洛に備え霊山城を築城[105]
  • 12月1日 長慶上洛、祇園に着陣[105]

天文22年(1553年)

  • 2月 細川晴元、丹波から高雄に進出。
  • 3月8日 足利義輝と長慶反目。義輝、霊山城に入城。
  • 6月 阿波守護の細川持隆、足利義栄の上洛を企て三好実休の協力を求めるが暗殺される。
  • 7月 晴元、長坂から出張。
  • 8月1日 長慶、霊山城を攻撃。義輝、朽木に逃れる。
  • 9月 上杉謙信、越後より上洛。
  • 9月 長慶、松永兄弟に丹波攻めを命じるも敗れる。

天文23年(1554年)

  • 4月 三好長慶、丹波出兵。
  • 8月 三好長逸、播磨に出兵し三木城を攻撃。
  • 10月12~28日 淡路・洲本で三好家兄弟会議。長慶、三好実休、十河一存、安宅冬康が参加[108]
  • 11月 三好勢、播磨の細川晴元方を攻撃[109]

弘治・永禄年間編集

概説編集

弘治年間に入っても三好長慶と足利義輝・細川晴元の抗争は続いたが、永禄元年(1558年)11月になって六角氏の仲介により、義輝と長慶の間で和睦が成立。義輝は5年ぶりに還京し、久しぶりに京都に幕府が存在する状況が復活し、幕府と三好政権が並立する状況が生まれた[110]。細川晴元はなおも反長慶の戦いを続けたが永禄5年(1562年)になって長慶と和睦し、永禄6年(1563年)摂津・普門寺で亡くなった。

永禄3年(1560年)11月、三好長慶は芥川山城を嫡男の義興に譲り、自らは河内の飯盛山城に本拠を移した。これにより摂津・芥川山城に義興、北河内・飯盛山城に長慶、南河内の高屋城には三好実休、和泉・岸和田城に十河一存と一族を配置し、長慶は摂河泉に強力な支配体制を構築した。だがこの体制は長くは続かなかった。翌永禄4年(1561年)3月、一存が死没。永禄5年3月に実休が久米田の戦いで敗死した。5月には教興寺の戦いで畠山高政を破り、三好政権は全盛期を迎えるものの、永禄6年8月には長慶の後継者の義興が病没と、長慶を支える一門衆が相次いで亡くなった。永禄7年(1564年)7月には長慶自身も43歳で死去し、三好本宗家は阿波三好家の義継が相続、三好家の一門衆が義継を輔弼する体制がとられた。

 
足利義輝
 
足利義昭

義輝と長慶の後を継いだ義興の間は良好で融和的な関係にあった[111]。しかし義興が永禄6年に亡くなると義輝政権と三好政権の並立状況に変化が起き始めた。義輝は御所の改修に乗り出し[112]上杉謙信北条氏康との和睦を促すようになった[113]。永禄8年(1565年)5月、三好勢は義輝に何事かを訴えるために御所巻を行ったが、その最中戦闘に発展し義輝は戦死した[114]。三好勢は義輝の弟の足利周こうを殺害。もう一人の弟足利義昭興福寺に幽閉されたが7月に脱出し近江に逃れた。この状況下、反三好勢力が期待をかけていたのは関東管領の謙信だった。義昭・畠山氏は謙信に上洛を求め、越前の朝倉氏も謙信に上洛を勧めた。しかし武蔵を巡って北条氏と緊張関係にあった謙信は上洛することは出来なかった[115]

こうして三好家が政権の主導権を獲得したが、今度は家臣団内部で不和が生じ始めた。同年11月、松永久秀三好三人衆は断交し、翌永禄9年(1566年)2月、両者は和泉・上野芝で合戦し三好三人衆が勝利した。追い詰められた久秀は堺に立て籠もったのち、5月に姿をくらました。永禄10年(1567年)2月、義継は三好三人衆と義絶し、再び姿を現した久秀とともに大和を根拠地に三人衆と争うことになった。

4月、三人衆は大和に攻め込み久秀・義継と三人衆は奈良で市街戦を展開した。この市街戦は6ヶ月もの長期に亘ったが10月10日夜、久秀・義継軍は東大寺大仏殿に陣取る三人衆を急襲し、敗れた三人衆は大和から退却した(東大寺大仏殿の戦い)。

永禄11年(1568年)3月、三人衆に推戴され足利義栄が摂津・富田で将軍位に就任したが、上洛することは出来ず9月に同地で没した。

一方、近江・矢島に逃れた義昭は朝倉義景を頼って越前に入国した。義昭は越前から各地の戦国大名に上洛のための馳走を呼びかけた。その中から織田信長がこれに応じる意向を示し、永禄11年7月義昭は越前を発ち信長の本拠地美濃・岐阜へ移動した。9月、 足利義昭は織田信長に供奉され上洛。10月には15代将軍に就任した。

年表編集

天文24年/弘治元年(1555年)

  • 1月 三好長慶、別所氏三木城を攻略し、播磨を平定。
  • 9月 長慶、波多野元秀の丹波・八上城を攻撃[116]
  • 10月23日 弘治改元。

弘治2年(1556年)

弘治3年(1557年)

  • 9月5日 後奈良天皇崩御。
  • 10月 三好長慶、八上城を再攻撃[116]
 
正親町天皇

弘治4年/永禄元年(1558年)

  • 2月28日 永禄改元。
  • 3月 細川昭元、芥川山城で元服[118]
  • 4月 足利義輝と細川晴元、坂本に進出[119]
  • 6月9日 三好勢と義輝が北白川で合戦(北白川の戦い)。
  • 7月9日 義輝と長慶との間で、帰洛に向けた交渉を開始[120]
  • 8月 赤松義祐小寺政職、播磨守護・赤松晴政を追放。
  • 9月 尼崎で三好家兄弟会議。長慶、三好実休、十河一存、安宅冬康、三好義興参加[121]
  • 11月27日 義輝、六角義賢の仲介により長慶と和睦。義輝、5年ぶりに帰洛。
  • 11月 河内守護の畠山高政、守護代の安見宗房と反目し河内を出奔[122]

永禄2年(1559年)

永禄3年(1560年)

  • 3月 幕府、ガスパル・ヴィレラにキリスト教の布教を許可する。
  • 3月 富田林寺内町が成立。
  • 3月 近畿で旱魃が起こる[16]
  • 4月8~28日 洲本で三好家兄弟会議。三好長慶、三好実休出席[127]
  • 5月 三好勢、河内に侵攻。
  • 6月 足利義輝、御所を完成させる[128]
 
浅井長政

永禄4年(1561年)

  • 2月1日 三好長慶・三好義興・松永久秀、足利義輝より桐紋を拝領する[132]
  • 3月3日 義輝、長慶邸御成[133]
  • 3月18日 十河一存死去。
 
三好義興
  • 3月30日 義輝、義興邸御成[134]
  • 閏3月12日 義輝、毛利元就に尼子義久との和睦を求める[31]
  • 6月 京都、奈良に大風雨、洪水[16]
  • 7月 六角義賢・畠山高政ら、長慶に背き挙兵。
  • 8月17日 元就、義久との和睦に応じる[31]
  • 11月24日 将軍地蔵山の戦い。三好勢、義賢を攻撃。義賢敗走。

永禄5年(1562年)

  • 3月5日 久米田の戦い。三好実休、畠山高政に敗れ戦死。
  • 3月6日 足利義輝。石清水八幡宮に退避[135]
  • 3月 六角義賢上洛、洛中洛外に放火[135]
  • 5月19日 教興寺の戦い。三好長慶、畠山高政を破る。
  • 5月 細川晴元と長慶が和睦。
  • 6月2日 長慶と義賢が和睦。
  • 6月22日 足利義輝帰洛[135]
  • 8月2日 近衛前久、越後から帰洛[135]
  • 8月25日 伊勢貞孝、謀反を起こす[135]
  • 8月 松永久秀、山城南部と大和に徳政令を出す[136]
  • 9月12日 三好義興ら貞孝を攻撃。貞孝敗死[135]
  • 11月 久秀、春日大社で七ヶ夜陪従神楽を催す[137]

永禄6年(1563年)

  • 1月 毛利元就、大森銀山を朝廷・幕府に献上。以後、京都での銀使用が増加[138]
  • 3月1日 細川晴元、摂津・富田の普門寺城で死去。
  • 5月 足利義輝、大友・毛利氏間の和睦調停を行う[139]
  • 8月25日 三好義興死去。
  • 9月23日 伊勢神宮外宮、130年ぶりに正遷宮を行う[140]
  • 10月1日 六角義治、重臣の後藤賢豊父子を殺害(観音寺騒動)。
  • 12月20日 細川氏綱没。
  • 閏12月 松永久秀、家督を嫡男の久通に譲る[141]

永禄7年(1564年)

  • 1月 三好義継・松永久通、上洛し足利義輝に出仕[141]
  • 5月9日 安宅冬康、兄の三好長慶に自害させられる。
  • 5月13日 義輝、上杉謙信に御内書を発し北条氏康との和睦を求める[113]
  • 6月22日 義継、家督相続の挨拶のため上洛[142]
  • 7月4日 長慶没。
  • 7月 大友・毛利氏間の和睦が成立[143]
  • 12月 京で三好家重臣会議を開く[127]篠原長房松永久秀三好長逸出席。

永禄8年(1565年)

  • 3月23日 足利義輝、上杉謙信に北条氏康との和睦を再度求める[113]
  • 5月19日 永禄の政変起こる。義輝、三好三人衆らに襲撃され討死。
  • 6月24日 河内守護・畠山氏、謙信に「天下御再興」のため上洛を求める[141]
  • 7月5日 正親町天皇、キリシタン追放の綸旨を発する[144]
  • 7月 松永久秀、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・フロイスら宣教師を京より追放。
  • 7月28日 足利義昭、興福寺から近江・矢島に脱出[142]
  • 8月5日 義昭、謙信に御内書を発し上洛を求める[145]
  • 8月 松永長頼、丹波で戦死[146]
  • 11月15日 三好三人衆、久秀と断交。

永禄9年(1566年)

  • 2月17日 三好三人衆、和泉・上野芝で松永久秀・畠山高政・根来衆と合戦し撃破[147]
 
曲直瀬道三
  • 2月 足利将軍家、出雲陣中で発病の毛利元就のために曲直瀬道三を遣わす[148]
  • 5月30日 松永久秀、堺から逃亡[147][142]
  • 8月 足利義昭、若狭に逃れる。
  • 6月11日 阿波の篠原長房、足利義栄の先方として摂津に渡海[142]
  • 8月17日 長房、2万5千の軍勢で久秀方の摂津・滝山城を攻略[149]
  • 8月29日 義昭、若狭に逃れる[28]
  • 9月8日 義昭、越前に移動[150][28]

永禄10年(1567年)

 
里村紹巴
  • 2月10日 里村紹巴、京を出立。
  • 2月16日 三好義継、三好三人衆から離反[142]
  • 4月12日 義継と松永久秀、多聞山城に入城[151]
  • 4月 六角氏式目制定[152]
  • 8月27日 紹巴、帰洛。
  • 8月28日 紹巴、「富士見道記」記了。
  • 8月 織田信長、伊勢北部に出兵[153]
  • 10月10日 東大寺大仏殿の戦い。義継・久秀と三好三人衆が奈良で市街戦。東大寺大仏殿全焼。
  • 11月22日 義昭、一乗谷に移動[28]
  • 12月 足利義昭、朝倉義景と加賀一向一揆の和睦仲介を行う[150]

永禄11年(1568年)

  • 1月17日 足利義昭、朝倉義景と加賀一向一揆を和睦調停を行う[28]
  • 2月8日 足利義栄、将軍宣下[142]
  • 2月 織田信長、伊勢に再出兵し伊勢北部を平定[153]
  • 5月17日 義昭、義景邸に御成[154]
  • 6月24日 義昭、越前を離れる[155]
  • 7月24日 義昭、美濃に立政寺に移動[28]
  • 8月7日 義昭を供奉し上洛作戦中の信長、義景に近江・佐和山まで出兵を求めるが拒否される[28]
  • 8月17日 三好三人衆、近江に赴き六角義賢・義治父子と会談。「天下之儀」について話し合う[156]
  • 9月7日 信長、美濃から近江に出陣。
  • 9月10日 義栄死去。
  • 9月12日 観音寺城の戦い。信長、六角氏を撃破。六角氏、甲賀に逃亡。
  • 9月26日 義昭・信長上洛。
  • 9月 近衛前久、再び出奔[157]
  • 10月5日 松永久秀、義昭と信長に出仕[158]
  • 10月18日 義昭将軍宣下。義昭、畿内の守護を再編。
  • 10月24日 信長、義昭より桐紋・引両を拝領[159]
  • 10月 義昭・信長、大和に兵を派遣し平定する[160]

永禄12年(1569年)

  • 1月5日 三好三人衆、本圀寺の足利義昭を攻撃(本圀寺の変)。
  • 1月14日 織田信長、「殿中御掟」を定める[161]
  • 2月27日 信長、義昭の御所修築を始める[162]
  • 2月28日 信長、京都に撰銭令を発する[163]
  • 3月 信長、摂津・天王寺に撰銭令を発する[163]
  • 4月8日 信長、キリシタンに洛中居住を許可する[164]
  • 4月15日 義昭、キリシタンに洛中居住を許可する[164]
  • 4月25日 正親町天皇、宣教師追放の綸旨を発布[164]
  • 4月 顕如と朝倉義景が和睦[28]
  • 8月28日 信長、北畠氏の伊勢・大河内城を包囲(大河内城の戦い)。
  • 8月 信長、毛利元就の要請を受け但馬守護・山名氏を攻撃[165]
  • 10月4日 信長、北畠氏と和睦。織田信雄、北畠家の家督を相続[162]
  • 10月6日 信長、伊勢神宮に参詣[162]
  • 10月17日 信長、岐阜より上洛も早々に帰国。

元亀年間編集

概説編集

 
織田信長

元亀元年(1570年)4月、織田信長は朝倉義景の成敗に乗り出すが浅井長政の謀反により失敗に終わった。しかし6月には近江・野村で朝倉・浅井連合軍を徳川家康とともに撃破した。しかし敗れた義景は三好三人衆浅井長政、本願寺・顕如とともに信長包囲網を形成し信長に対し抵抗を続けた。12月に勅命講和により一旦は和睦するものの、元亀3年(1572年)、義景は浅井氏、顕如に加え、甲斐守護の武田信玄も仲間に引きずり込み再び信長包囲網を形成した。信長は西方の本願寺、三好三人衆、東方の朝倉・浅井連合軍に挟撃され、同盟者の家康も遠江三方ヶ原で信玄に大敗するなどし窮地に立たされた。しかし12月になって義景が越前に帰国したため、信長はひとまず危機を脱した。

義景の催促に応じて反信長の兵をあげた信玄は、越前に撤退してしまった義景を非難したが叛意させることは出来なかった。出兵の大義を失ってしまった信玄は自身の出兵を正当化させるため元亀4年(1573年)2月、将軍の足利義昭を反信長陣営に引き入れた[166]。こうして信長に対して挙兵した義昭だが、信玄は元亀4年(1573年) 4月、信州・駒場の陣中で病没してしまい、7月には山城・槙島で信長に敗れ義昭は京都から追放された。天正に改元後の8月には朝倉、浅井氏も信長の攻撃により滅亡。11月には河内・若江城三好義継も信長配下の佐久間信盛に攻められて自害し、元亀の騒乱は終息した。

年表編集

永禄13年/元亀元年(1570年)

  • 1月23日 織田信長、「殿中御掟」を定める[161]
  • 1月23日 信長、諸国の大名・領主に触状を発し将軍への出仕を求める[167]
  • 4月14日 信長、足利義昭の二条御所完成を祝して能を催す。姉小路頼綱、徳川家康、畿内の大名ら出席[168]
 
朝倉義景
  • 4月20日 信長、越前に出兵。朝倉義景の成敗に乗り出す[168]
  • 4月23日 元亀改元。
  • 4月30日 信長、浅井長政の裏切りにより越前から撤退[168]
  • 6月4日 野洲河原の戦い。信長軍、六角勢を退ける。
  • 6月28日 野村の戦い。織田・徳川軍、朝倉・浅井軍を破る。
  • 7月21日 三好三人衆、摂津に上陸(野田城・福島城の戦い)[169]
  • 8月 東大寺大仏殿の再建開始。
 
顕如
  • 9月 義景の催促を受け、本願寺顕如、信長に反抗[166]
  • 9月12日 顕如、諸国の門徒に反信長の一揆を蜂起させる[28]
  • 9月20日 義景・長政、近江・坂本に進出[28]。(志賀の陣)。
  • 9月23日 義昭・信長、摂津から撤退[170]
  • 9月23日 幕府、京都に徳政令を発布する[171]
  • 10月 三好三人衆。南山城まで進出[170]
  • 10月20日 朝倉・浅井軍、京都郊外を放火[28]
  • 11月12日 信長、長政との和睦を拒否[172]
  • 11月21日 信長と三好三人衆・篠原長房、松永久秀の仲介で和睦[173][172]
  • 11月21日 信長と六角義賢が和睦[172]
  • 11月21日 伊勢・長嶋一向一揆、攻勢に出て織田信興を自害させる[168]
  • 12月13日 信長と義景、朝廷講和により和睦[174]

元亀2年(1571年)

  • 5月 信長の長嶋一向一揆征伐が失敗に終わる。
  • 7月 京都で風流踊が流行。
 
筒井順慶

元亀3年(1572年)

  • 3月 足利義昭、洛中に織田信長邸の造営を始める[176]
  • 3月 信長、摂津・本興寺寺内町を安堵する[177]
  • 4月 三好義継と松永久秀が信長から離反。
  • 7月 信長、近江に侵攻。浅井氏を攻撃。朝倉義景、浅井氏支援のため近江に出陣[28]
  • 8月8日 前波吉継、義景から離反し信長に降る[178]
  • 8月 信長と本願寺・顕如、義昭と武田信玄の仲介により和睦。
  • 10月3日 信玄、義景と顕如の催促に応じて信長打倒のため出陣[179]
  • 10月 義昭・信長、毛利・浦上氏間の和睦を仲介[180]
  • 12月3日 義景、近江から撤退し越前に帰国[28]
  • 12月 信長、義昭に「異見十七ヵ条」を提示する。

元亀4年/天正元年(1573年)

  • 1月27日 顕如、尾張・美濃・三河・遠江の門徒に蜂起を指示[181]
  • 2月13日 足利義昭、織田信長打倒のため挙兵。
  • 2月 信長、義昭を翻意させるため人質の提出と剃髪の意向を示す[182]
  • 2月 武田信玄、三河・野田城を攻略。
  • 3月12日 信玄、甲斐へ撤退を始める。
  • 3月29日 信長上洛する[183]
  • 3月 大山崎惣中、信玄に禁制を求める[184]
  • 3月 義昭、造営中の信長邸を破却[176]
  • 4月4日 信長、上京を焼き討ち[185]
  • 4月7日 義昭と信長、和睦に合意する[183]
  • 4月12日 信玄、信濃・駒場の陣中で病没。
  • 4月27・28日 義昭と信長、和睦の起請文を交わす[183]
  • 5月22日 信長、近江・佐和山で大船を建造を開始する[186]
  • 6月25日 紀伊・南河内守護の畠山秋高、守護代の遊佐信教に殺害される[187]
  • 6月26日 一条内基、土佐へ下向。
  • 7月3日 義昭、再度挙兵。山城・槙島城に立てこもる[161]
  • 7月3日 佐和山で建造中の大船が完成[186]
  • 7月18日 信長、槙島城を攻撃。義昭降伏、追放される(槇島城の戦い)。
  • 7月26日 信長、木戸城(清水山城)と田中城を攻撃。高島氏が降伏[186]
  • 7月28日 天正改元。
  • 7月 村井貞勝、信長より天下所司代に任命される。
  • 8月2日 織田勢、淀古城を攻撃。岩成友通討死(第二次淀古城の戦い)。
  • 8月8日 阿閉貞征、浅井長政から離反し信長に降る[186]
  • 8月20日 信長、越前の朝倉義景を攻撃。義景自刃[188](一乗谷城の戦い)。
  • 9月1日 信長、近江・小谷城を攻め浅井長政を滅ぼす(小谷城の戦い)。
  • 9月 信長、再度長嶋一向一揆の征伐に乗り出すも失敗に終わる。
  • 11月5日 信長、堺に羽柴秀吉を派遣。義昭と帰洛に向けた交渉を行う[188]
  • 11月16日 若江城の戦い。織田勢、三好義継を攻撃。義継自害。
  • 12月 松永久秀、信長に降伏。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ その後、義材の身柄は龍安寺から上原元秀の屋敷に移された。(山田康弘 『足利義稙 -戦国に生きた不屈の大将軍-』 戎光祥出版、2016年、p.97。)
  2. ^ 大物崩れの変における細川高国の敗死は、越後の守護代・長尾為景上田長尾氏上条定憲による権力闘争に大きな影響を与えた。為景は高国を取次として幕府の後ろ盾を得て、上田長尾氏・上条氏と抗争を続けていた。しかし高国の死により幕府との関係が失われたため、為景を支持してきた揚北衆から離反者が出始め為景は劣勢に立たされた。そのため為景は家督を息子の長尾晴景に譲って隠居することになった(久留島典子 『一揆と戦国大名』 pp.145-147。)
  3. ^ 鈴木芳道  「後北条氏権力と「国」」(鷹陵史学21号 鷹陵史学会、1995年、p.80。)では「天文二十三年ヵ」としている。
  4. ^ 対上杉謙信を目的に、越中一向一揆と武田信玄双方に提携の必要が生じたため。

出典編集

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参考文献編集

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関連項目編集