源政長

平安時代中期から後期の貴族・雅楽家。源資通の三男。正四位下・内蔵頭、刑部卿、備中守。子に覚珍(延暦寺)、兼覚(仁和寺)、長増(園城寺、阿闍梨)

源 政長(みなもと の まさなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族雅楽家宇多源氏参議源資通の三男。権大納言源経長の養子。官位正四位下内蔵頭

 
源政長
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 長暦2年(1038年
死没 永長2年1月4日1097年2月18日
官位 正四位下内蔵頭
主君 後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇
氏族 宇多源氏
父母 父:源資通、母:源頼光[1]
兄弟 師賢政長、成仲、師俊、為忠、
源経成
藤原経季の娘、藤原憲房の娘
忠政有賢、覚珍、兼覚、長増、白河天皇後宮、源師忠室、輔仁親王
テンプレートを表示

経歴

編集

寛徳2年(1045年後冷泉天皇即位後まもなく昇殿を聴される。康平4年(1061年)頃に近衛少将に任ぜられるが、康平7年(1064年)に左少将を止められて民部権大輔に遷る。

のち、後三条朝末まで10年ほど民部権大輔を務め、延久5年(1073年後三条天皇四天王寺住吉神社行幸の折にを吹いている[2]

白河朝承暦2年(1078年)頃に若狭守に任ぜられるが、遙任であったとみられる。堀河朝の寛治元年(1088年)頃より刑部卿を務め、堀河天皇侍読となって天皇を教授した。その後、内蔵頭に任ぜられ備中守を兼ねている。

永長2年(1097年)閏1月4日に卒去享年60。最終官位は正四位下行内蔵頭兼備中守。烏丸姉小路にあった邸宅は死後高階能遠に渡ったが、康和4年(1102年)に焼亡している[3]。なお、この他に八条に水閣を所有していたとされる。

人物

編集

宇多源氏神楽郢曲を父・資通より学んで和琴琵琶に通じ、それを子息の有賢刑部卿藤原敦兼らに伝えた。多くの儀式行事で笛を担当。『続教訓抄』では「左右なき管弦者」と称された。堀河天皇にもこれを教え、常に天皇の傍にいるようであったという[1]。琵琶においても、承暦年間に「琵琶の明匠」として、源経信藤原宗俊らと共に召されている。同じ頃、白河天皇中宮賢子の大原野行啓の試楽において太鼓をうったが、一拍子も誤らなかったという[4]。また、和歌蹴鞠もよくしたらしい[5]

官歴

編集

系譜

編集

脚注

編集
  1. ^ a b c 中右記永長2年閏正月4日条。『尊卑分脈』では源憲広の娘とする。
  2. ^ a b 栄華物語』松の下枝
  3. ^ 『中右記』康和4年9月4日条
  4. ^ 『続古事談』
  5. ^ 『尊卑分脈』
  6. ^ 『皇后宮歌合』
  7. ^ a b 『近衛府補任』
  8. ^ 『群書類従』25-298
  9. ^ 『教訓抄』
  10. ^ 『袋草子遺編』
  11. ^ a b 『中右記』
  12. ^ 『江記』『勘例』

参考文献

編集