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滝川 利貞(たきがわ としさだ、慶長14年(1609年) - 延宝5年4月25日1677年5月26日))は、江戸時代前期の旗本譜代大名土岐氏の出身で、村上源氏北畠庶流滝川家常陸片野藩主滝川雄利の子孫)を婿養子として継承した。通称は大学、勘兵衛、官位は従五位下長門守

摂津高槻藩主土岐定義の次男。母は信濃諏訪藩主諏訪頼水の娘。養父は常陸片野藩主滝川正利。妻は養父滝川正利の娘。正利の娘との間に滝川利雅滝川利錦滝川具章の三子があり、他に土岐頼利(旗本土岐頼久(土岐定義の四男、利貞の実弟)の養子)、滝川義利(夭折)、女子1人をもうけた[1]

生涯編集

元和3年(1617年)、土岐定義の庶子として初めて徳川秀忠御目見し、元和9年(1623年)、召しだされて小姓に列した[1]寛永2年(1625年)、常陸片野藩主滝川正利が、多病および嗣子を欠くためとして願い出て所領2万石のうち1万8000石を返上し没すると、命によりその末期養子となり、正利の娘を娶って滝川家の名跡と所領常陸片野2000石を継承した。

寛永9年(1632年)、中奥小姓に転任し、従五位下長門守に叙せられた[2]。寛永16年(1639年)、御膳番を勤めていた際に、厨房費が高騰しており下々の役人が乱脈を行っている[3]として節倹令が発せられたのに伴い、御膳番の同僚とともに書院番の番士に異動の上、進物番兼務を命ぜられた[4]

正保4年(1647年)、小姓組の組頭に昇進[5]、更に慶安3年(1650年)には小姓組番頭に昇進[6]、家光から家綱への代替わりのあった翌4年(1651年)に廩米1000俵の加増を受けた[7]明暦2年(1656年)、御書院番の番頭に転任し[8]寛文元年(1661年)には御留守居に昇進[9]。この職を10年以上勤めた後、延宝4年(1676年)に病気のため辞職した[10]

延宝5年(1677年)死去、享年69。法名は宗興。養祖父雄利、養父正利と同じ片野の泰寧寺茨城県石岡市根小屋)に葬られた[1]

長子利雅は父に先立って死去したため、次男の利錦が遺領を継ぎ、のちに加増を受けて子孫は4000石を領した。また、三男の具章は将軍家綱の小姓に取り立てられて別家、目付京都町奉行を歴任して1500石を領し、この2家が幕末まで続いた[11]

参考文献編集

脚注編集

  1. ^ a b c 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書, 1923, p. 425(コマ番号221)。
  2. ^ 「大猷院殿御実紀」巻21. 寛永9年12月20日条(『徳川実紀. 第貳編』経済雑誌社, 1904, p. 271.)。
  3. ^ 「近年各局の諸調度其外庖所等の物價騰貴するをもて、下々みだりなる様に聞ゆ」(『徳川実紀』)
  4. ^ 「大猷院殿御実紀」巻42. 寛永12年12月26日条、同28日条(『徳川実紀. 第貳編』p. 558.)。
  5. ^ 「大猷院殿御実紀」巻68. 正保4年10月14日条(『徳川実紀. 第貳編』p. 887.)。
  6. ^ 「大猷院殿御実紀」巻79. 慶安3年11月19日条(『徳川実紀. 第貳編』p. 1061.)。
  7. ^ 「厳有院伝御実紀」巻2. 慶安4年11月21日条(『徳川実紀. 第參編』経済雑誌社, 1904, p. 33.)。
  8. ^ 「厳有院伝御実紀」巻11. 明暦2年正月15日条(『徳川実紀. 第參編』p. 169.)。
  9. ^ 「厳有院伝御実紀」巻22. 寛文元年7月21日条(『徳川実紀. 第參編』p. 391.)。
  10. ^ 「厳有院伝御実紀」巻52. 延宝4年2月7日条(『徳川実紀. 第參編』p. 853.)。
  11. ^ 小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻, 東洋書林, 1997, p. 1610-1611.