稲葉 正吉(いなば まさよし)は、江戸時代前期の武士旗本美濃国青野領(知行5000石)の2代領主。

 
稲葉 正吉
時代 江戸時代
生誕 元和4年(1618年
死没 明暦2年7月3日1656年8月22日
別名 通称:権佐
戒名 銕心
墓所 神奈川県小田原市紹太寺
官位 従五位下伊勢
幕府 江戸幕府旗本寄合席書院番
主君 徳川家光家綱
美濃青野領
氏族 稲葉氏
父母 父:稲葉正成、母:山内康豊娘・与祢
兄弟 正次正勝正定正房正利正吉
まん(堀田正吉正室)、朽木稙綱正室
養兄弟:政貞
正室:太田資宗
正休(長男)、永井尚庸正室、
町野幸重継室(寛政重修諸家譜
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元和4年(1618年)、稲葉正成の十男として生まれる。寛永5年(1628年)、兄・正次が死去した際、その子・正能は僅か3歳という幼年だったため、代わりにその所領である美濃青野領5000石を相続し、旗本寄合席に列した。

寛永18年(1641年)4月22日に甲府城の守衛、正保2年(1645年)6月25日に浅草寺観音堂の造営奉行を務めた。慶安3年(1650年)11月19日には書院番頭に就任した。

明暦2年(1656年)7月3日、駿府城の護衛中、家臣の安藤甚五右衛門松永喜内男色問題のもつれから争いとなり、その末に殺害された。享年39。長男の正休が跡を継いだ。

参考文献 編集