滝川利錦
滝川 利錦(たきがわ としかね)は、江戸時代前期の旗本。旧片野藩主滝川家第4代当主。初名は利昌(としまさ)。通称は左兵衛、式部、官位は従五位下、若狭守、長門守、越前守、隠岐守。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永20年(1643年) |
死没 | 宝永7年6月24日(1710年7月20日) |
改名 | 左兵衛、利昌、利錦 |
別名 | 通称:式部 |
戒名 | 義信 |
墓所 | 下谷広徳寺塔頭桂徳院 |
官位 | 従五位下若狭守、長門守、越前守、隠岐守 |
幕府 | 江戸幕府 小姓組、書院番組頭、小姓組番頭、書院番番頭、側衆 |
主君 | 徳川家綱、綱吉、家宣 |
氏族 | 滝川氏 |
父母 | 父:滝川利貞、母:滝川正利の娘 |
兄弟 | 利雅、利錦、具章、土岐頼利、義利、女子1人 |
妻 | 正室:服部保忠の娘 |
子 |
新庄直澄室、滝川利元室、女子、利章 養子:利元 |
生涯
編集寛永20年(1643年)、旗本滝川利貞の次男として生まれた。母は旧片野藩主滝川正利の娘[1]。承応3年(1654年)、初めて徳川家綱に御目見した[2]。寛文3年(1663年)、譜代大名・旗本の庶子102人が召しだされて小姓組に入番したうちに選ばれて番士となり[3]、寛文5年(1665年)に廩米300俵を与えられた[1]。寛文7年(1667年)、進物番に出役した[1]。
延宝元年(1673年)、長兄利雅が父に先立って早世したため滝川家の嗣子となり、従五位下、若狭守に叙せられた[4]。延宝4年(1676年)、書院番組頭に昇進し[5]、300俵を加増された[6]。延宝5年(1677年)、父利貞死去により常陸国新治郡片野2000石および廩米1000俵を相続し[7]、それまで給されていた廩米600俵を返上した[1]。
延宝7年(1679年)、小姓組の番頭に昇進[8]。天和2年(1682年)、上野国邑楽郡と下野国足利郡に合計で1000石を加増された[1]。貞享4年(1687年)、書院番の番頭に転任[9]。元禄2年(1689年)、徳川綱吉の御側に昇進した[10]。元禄9年(1696年)に辞職、寄合に列した[11]。
元禄10年(1697年)、常陸・上野・下野に散在する知行地3000石と廩米1000俵に替えて近江国の浅井、蒲生、坂田3郡のうちに4000石を与えられ[1]、曽祖父滝川雄利以来の居所片野陣屋を去った[12]。近江国においては陣屋を浅井郡宮部村に設けて代官を派遣し、所領を支配した[13]。利錦以降の滝川家は近江国内4000石の大身旗本として幕末まで続く[14]。
系譜
編集参考文献
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書, 1923, p. 425.
- ^ 「厳有院伝御実紀」巻7. 承応3年6月19日条(『徳川実紀. 第參編』経済雑誌社, 1904, p. 117.)
- ^ 「厳有院伝御実紀」巻27. 寛文3年11月19日条(『徳川実紀. 第參編』p. 481-482.)
- ^ 「厳有院伝御実紀」巻47. 延宝元年12月28日条(『徳川実紀. 第參編』p. 798.)
- ^ 「厳有院伝御実紀」巻53. 延宝4年10月23日条(『徳川実紀. 第參編』p. 869.)
- ^ 「厳有院伝御実紀」巻53. 延宝4年12月25日条(『徳川実紀. 第參編』p. 874.)。
- ^ 「厳有院伝御実紀」巻55. 延宝5年7月12日条(『徳川実紀. 第參編』p. 886.)。
- ^ 「厳有院伝御実紀」巻53. 延宝7年8月12日条(『徳川実紀. 第參編』p. 937.)
- ^ 「常憲院伝御実紀」巻15. 貞享4年5月9日条(『徳川実紀. 第四編』経済雑誌社, 1904, p. 250.)
- ^ 「常憲院伝御実紀」巻20. 元禄2年12月21日条(『徳川実紀. 第四編』p. 333.)
- ^ 「常憲院伝御実紀」巻33. 元禄9年4月11日条(『徳川実紀. 第四編』p. 525.)
- ^ 東京航業研究所編『片野城跡』東京航業研究所、2006年、p. 9.
- ^ 黒田惟信編『東浅井郡志 巻3』滋賀県東浅井郡教育会, 1927, p. 254.
- ^ 小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻, 東洋書林, 1997, p. 1611.