貞数親王

平安時代の皇親。清和天皇の八男。勅撰集『後撰和歌集』『新拾遺和歌集』に2首入集。四品、兵部卿

貞数親王(さだかずしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族清和天皇の第八皇子。官位四品常陸太守

貞数親王
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 貞観17年(875年
薨去 延喜16年5月19日916年6月22日
官位 四品常陸太守
父母 父:清和天皇、母:在原文子
兄弟 陽成天皇、貞固親王、貞元親王貞保親王、貞平親王、貞純親王、孟子内親王、包子内親王、敦子内親王貞辰親王識子内親王貞数親王貞真親王、貞頼親王、源長猷、源長淵、源長監、源長頼、源載子
源為善
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経歴

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清和朝貞観18年(876年)姉の識子とともに(内)親王となる。

容姿端麗で舞の名手であったと伝えられており、元慶6年(882年陽成天皇の主催で清涼殿で開かれた皇太后藤原高子の四十賀において、貞数は陵王の舞を見せている[1]。この出来事を親王の大叔父である在原業平と藤原高子との関係と結び付け、高子と兄・藤原基経との対立の一因、ひいては高子所生の陽成天皇退位につながる伏線とみる解釈もある[2]。ただし先述のように、高子と在原氏(特に業平)との関係が取り沙汰される際に必ず論拠とされる『伊勢物語』の第79段には、貞数親王の誕生時、父親は清和天皇ではなく文子の叔父の業平だと人々が噂したなどとも記述されている。

仁和2年(886年)に行われた藤原時平元服に際しても、貞数は召されて舞を踊っており、その翌日には光孝天皇がこれを賞して宮中での帯剣を許すを下している[3]

仁和4年(888年元服し、四品に叙せられる。醍醐朝初頭の昌泰元年(898年)ごろ常陸太守を務めた。延喜16年(916年)5月19日薨去享年42[4]

後撰和歌集』『新拾遺和歌集』に和歌作品が1首ずつ採録されている[5]

官歴

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注記のないものは『日本三代実録』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『日本三代実録』元慶6年3月27日条
  2. ^ 『伊勢物語』や『大和物語』などに、在原業平と藤原高子の入内前からの関係が伝えられており、基経は国母となった高子と在原氏の接近を藤原氏にとって好ましくないものととらえていたとする(瀧波貞子「陽成天皇廃位の真相」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収)
  3. ^ 『日本三代実録』仁和2年正月20日,21日条
  4. ^ a b 『一代要紀』
  5. ^ 『勅撰作者部類』
  6. ^ 『日本紀略』
  7. ^ 『本朝皇胤紹運録』
  8. ^ 『後撰集正義』

参考文献

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