永井 尚庸(ながい なおつね、寛永7年(1631年) - 延宝5年3月27日1677年4月28日))は、江戸時代前期の大名。尚庸系永井家初代。

永井尚庸

山城国淀藩主・永井尚政の三男。母は内藤清成の娘。正室は稲葉正吉の娘、継室は太田資宗の娘。子は永井尚附(長男)、永井直敬(次男)、松平定盈(三男)がいる。官位は従四位侍従伊賀守。

生涯 編集

1641年に三代将軍徳川家光に出仕し、のち将軍世子であった徳川家綱小姓を務め、1652年に蔵米1千俵を与えられた。

万治元年(1658年)、父の隠居に伴い河内国内で2万石を分与され、大名となった。蔵米1千俵は収公されている。 その後、1663年(33)に大坂加番となり、1664年、『本朝通鑑』編纂の奉行に任じられた。1665年に奏者番、さらに若年寄に任じられた。 寛文10年(1670年)に京都所司代に任じられ、山城・摂津・河内国内で1万石を加増され計3万石となった。

延宝4年(1676年)4月に病気を理由に願いを出し、京都所司代を免ぜられた。翌延宝5年(1677年)に死去し、跡を次男の直敬が継いだ。享年47。墓所は宇治市興聖寺

子孫は転封を繰り返した後、美濃加納藩主として明治維新を迎えた。

系譜 編集

父母

正室、継室

子女


先代
-
河内国
1658年 - 1677年
次代
永井直敬