蕭 宝義(蕭寶義、しょう ほうぎ、生年不詳 - 天監8年7月17日[1]509年8月18日))は、南朝斉皇族。巴陵隠王。明帝蕭鸞の長男。もとの名は明基。は智勇。聾啞者。

経歴 編集

蕭鸞と殷貴嬪のあいだの子として生まれた。建武元年(494年)10月、持節・都督揚南徐二州諸軍事・前将軍揚州刺史に任じられた。11月、晋安郡王に封じられた。始安王蕭遙光が刺史の任を代行した。まもなく宝義は右将軍の号を受け、石頭に駐屯した。建武2年(495年)7月、使持節・都督南徐州諸軍事・鎮北将軍・南徐州刺史として出向した。永泰元年(498年)8月、征北大将軍・開府儀同三司の位を受けた。永元元年(499年)、蕭遙光の乱が鎮圧されると、宝義は都督揚南徐二州諸軍事・驃騎大将軍・揚州刺史に任じられた。東府は兵火にかかって焼失していたが、蕭宝巻が宮殿の造営に精を出していたため、修築することができなかった。そこで宝義は揚州に駐屯した。永元3年(501年)1月、司徒に上った。同年(中興元年)3月、和帝が即位すると、宝義は侍中司空となった。12月、梁王蕭衍建康を平定すると、宝義は宣徳太后の令により太尉となり、司徒を兼ねた。

天監元年(502年)4月、蕭衍が皇帝として即位すると、宝義と逃亡した宝寅を除く、蕭鸞の男子を全員殺した。宝義は謝沐県公に封じられた。まもなく巴陵郡王に封じられ、南朝斉の祭祀を奉じた。天監8年(509年)7月、死去した。

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脚注 編集

  1. ^ 梁書』巻2, 武帝紀中 天監八年七月癸巳条による。

伝記資料 編集