田中勇(たなか いさむ、1905年明治38年)1月20日 - 2000年平成12年)2月12日)は、日本の実業家東急グループの役員として五島慶太五島昇親子の下で手腕を発揮し、「東急グループの大番頭」の異名で呼ばれた。

年表編集

エピソード編集

  • 水戸中学校4年生のときに重度の脚気に罹る。
  • 東京高等工業在学中、小石川の渋沢元治邸に書生として住み込む。女中頭のキミとは初日から折り合いが悪かった。
  • 昭和2年から数ヶ月、運転士として目蒲線に乗務した。
  • 戦局が厳しくなっても、田中は国の技術者優遇策により徴兵を免除されていた。
  • 東急副社長時代は不要照明の節約や裏紙使用の奨励など、資源活用やコスト削減の徹底を推進し、五島昇から「ケチ副」と呼ばれた。

脚注編集

  1. ^ a b 蔵前工業会創立100周年記念特集” (PDF). 社団法人蔵前工業会. p. 59 (2006年). 2019年11月23日閲覧。

参考文献編集

  • 本所次郎 『昭和の大番頭 ~東急田中勇の企業人生~』 (上・下) (新潮社、1990年)

関連項目編集


先代
大久保謙
蔵前工業会理事長
1974年 - 1978年
次代
白澤富一郎