畠山義成

日本の官僚・教育者

畠山 義成(はたけやま よしなり、1842年10月〈天保13年9月〉 - 1876年明治9年〉10月20日)は、明治時代初期の日本文部官僚教育者。旧薩摩藩士通称・丈之助(たけのすけ)、は純常。留学中の変名杉浦 弘蔵(すぎうら こうぞう、Kozo Soogiwoora)。明治時代初の官費留学生の一人。

はたけやま よしなり

畠山 義成
生誕 1842年10月(天保12年9月
薩摩国鹿児島郡鹿児島城下平之馬場(現・鹿児島県鹿児島市平之町
死没 1876年10月20日享年35)
太平洋上(シティ・オブ・ペキン号船中)
国籍 日本の旗 日本
別名 丈之助(通称)、純常()、杉浦弘蔵(変名
職業 官吏
肩書き 従五位
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明治維新前後に薩摩藩第一次英国留学生として留学後、教育行政に深くたずさわり、また東京開成学校東京大学の前身の一つ)、東京外国語学校東京外国語大学の前身)の校長、東京書籍館国立国会図書館の前身の一つ)、東京博物館(国立科学博物館および小石川植物園の前身)の館長を歴任した。

経歴

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出自と留学まで

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薩摩藩士として、鹿児島城下平之馬場(現在の鹿児島市平之町)に生まれる。家格は一所持格で、島津義弘の忠臣であった畠山長寿院盛淳を祖にすると思われるが、薩州武鑑では父親とみられる人物が加治木島津家の出(久徳の三男)になっているため、畠山家血縁であるかは不明。また、兄に二階堂蔀土岐四郎があるという[1]。出発時の肩書は当番頭。

幕末、薩摩藩が送り出した密航留学生[2]第一次選抜者から3名が辞退したため、後の家老候補としてその一員に選ばれる。当初辞退したが、藩主父の島津久光に説得されて留学生に加わったとされる。留学生は東シナ海甑島取調べとして、羽島へ移り、洋学を学んだ後、五代友厚寺島宗則堀孝之らを案内・通訳として、香港スエズ(一部陸路)経由でマルセイユから大陸を経てイギリスへ渡る。渡航時の任務として築城学の修業を割り当てられた。

年譜

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銅像・墓所

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若き薩摩の群像
  • 1982年昭和57年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生の像「若き薩摩の群像[14]の一人として建立。
  • 墓所は当初青山霊園1-イ-2-9の手塚律蔵(瀬脇寿人)の左隣にあったが、1938年(昭和13年)頃改葬された。現在は同霊園1-ロ-16-1の、兄である二階堂蔀家の墓所に合葬されている。多磨霊園無縁墓地には改葬されていない。なお、もう1人の兄土岐四郎の墓も、同霊園の1-イ-13-9(青山墓地中央交差点を挟んだ向かい側)にあり、近隣に葬られている。

著作

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  • 畠山義成洋行日誌(鹿児島県立図書館所蔵)
    • 西村正守「畠山義成洋行日記(杉浦弘蔵西洋遊学日誌)」(『参考書誌研究』第15号、国立国会図書館、1977年10月NAID 40001479930
    • 福井迪子「『畠山義成洋行日記』翻刻」(『研究年報』第6号、鹿児島県立短期大学地域研究所、1978年3月、NAID 110000039868
    • 「畠山義成洋行日記」(上沼八郎犬塚孝明編 『新修森有禮全集 第4巻』 文泉堂書店、1999年4月)
  • 畠山義成関係資料(尚古集成館所蔵)
  • 東京開成学校年報」(『文部省第二年報附録』)
  • 督学局年報 一」「東京博物館年報」(『文部省第三年報附録 第一』)

脚注

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  1. ^ 犬塚孝明、門田明、後藤純郎、西村正守ほかの研究、ダビッド・モルレーの「畠山小伝」("Hatakeyama Yoshinori of Japan")参照。
  2. ^ 慶応2年4月7日(1866年5月21日)に幕府は邦人の海外渡航の禁制解除を布達(外務省領事局旅券課「旅券の変遷と最近の動向」2016年)。
  3. ^ Christian Advocate, New York Observer, Edward Warren Clarkの『Life and Adventure in Japan』ほか
  4. ^ 渡辺正雄『お雇い米国人科学教師』講談社、1976年4月20日、154-165頁。 
  5. ^ 国立公文書館「肥後薩摩越前ノ三藩士中従来外国ニ留学セル者ヲ改テ留学生ト為ス」明治2年3月23日。
  6. ^ 国立公文書館アーカイブ参照。共に日付は日本の記録に載った日付のため、実際の渡欧日とは異なる。アメリカを離れる日は、吉田が上野と同日、吉原が大山らと同日。
  7. ^ 公文書アーカイブ参照
  8. ^ 萩原延壽『遠い崖:アーネスト・サトウ日記抄 9 岩倉使節団』朝日新聞社、2000年7月、ISBN 402257321X
  9. ^ 久米邦武『久米博士九十年回顧録』、久米邦武編『米欧回覧実記』参照。回覧実記前書きに、杉浦弘蔵(畠山の当時の変名)が慇懃にインタビューしたとの記載あり。
  10. ^ この日本隊観測の記録は『金星試験顛末』として海上保安庁海の情報室に展示されている。長崎県立図書館にも参考資料多数。
  11. ^ 上野彦馬の写真は風景等のみで、金星観測の写真は現存しないとされている。
  12. ^ 明治8年8月24日付槇村正直宛書簡(妻木忠太編纂 『木戸孝允文書 第六』 215-218頁)。
  13. ^ 畠山義成学士称号之件上稟」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治九年・第二百二十四巻」)。ラトガース大学から出されたのはhonorary Master's degree(名誉修士号)で、Bachelor's degree(学士号)ではない。畠山は卒業よりも前にラトガース大学を離れ、復学していないため、学士課程は修了しておらず、同大学を卒業していない。名誉修士号は離校後の功績に対して与えられたものと考えられる。
  14. ^ 若き薩摩の群像”. 鹿児島県観光連盟. 2014年5月14日閲覧。

参考文献

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関連文献

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外部リンク

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