白加(はくか、または、びゃくか[1]朝鮮語: 백가(ペカ)、生没年未詳)は、百済後期の画家

白加
各種表記
ハングル 백가
漢字 白加
発音:
日本語読み: はく か
ローマ字 Baek Ga
マッキューン・ライシャワー式 Paek Ka
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生涯編集

白加は仏画を描いていた画家と推定されるが、588年威徳王35年)に、恩率の首信・徳率の蓋文・那率の福富味身ら修信使の一行として、慧聡ら僧侶たち、太良未太ら寺工たち、麻奈文奴ら瓦博士たち、鑪盤博士の白昧淳、書人の陽古と共に倭へ渡って行った[2]

当時、僧侶と建築工など寺刹技術者たちが共に日本へ派遣されていた点に見て、法興寺という寺刹の建築と石塔造成および仏画奉安などに関連して派遣された百済最高の匠たちの中の一人であったものと見られる[2]法興寺596年(威徳王43年)に完成された。

評価編集

法興寺は日本最初の仏教寺刹であって、その建築と石塔造成および仏画奉安など一連の倭に新たな文化をまきあたえ、氏寺を建立する流行を吹き込んできた。特に白加は日本文化ないし絵画に大きな影響を与え、多くの業績を遺したことで知られている。

参考資料編集

参考文献編集

  • 『日本書紀II』井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生訳、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2003年、320頁。ISBN 4121600584

出典編集

  1. ^ 『日本書紀II』井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生訳、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2003年、320頁。ISBN 4121600584
  2. ^ a b 『日本書紀』   巻第21崇峻天皇紀. - ウィキソース. "是歳。百濟國遣使并僧惠總令斤惠寔等。獻佛舍利。百濟國遣恩率首信德率蓋文那率福富味身等進調。并獻佛舍利。僧聆照律師令威惠衆惠宿道嚴令開等。寺工太良未太文賈古子鑪盤博士將德白昧淳瓦博士麻奈文奴陽貴文㥄貴文昔麻帝彌畫工白加蘇我馬子宿禰請百濟僧等。問受戒之法。以善信尼等付百濟國使恩率首信等。發遣學問。』壤飛鳥衣縫造祖樹葉之家。始作法興寺。此地名飛鳥眞神原。亦名飛鳥苫田。●是年也太歳戊申。" 下線・太字強調は引用者(井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生訳 『日本書紀II』〈中公クラシックス〉J19、中央公論新社を参考に文字を改めた)。ただし、『日本書紀』のこの記述は崇峻天皇即位の元年とされているが、『日本書紀』の紀年では崇峻天皇は587年ごろ即位したことになるので、年代には齟齬がある。