白川雅業王
室町時代後期の日本の公卿。白川家18代。土佐一条氏の家礼衆。正二位神祇伯
白川 雅業王(しらかわ まさなりおう)は、室町時代後期の日本の公卿。白川家18代当主。土佐一条氏の家礼衆として奉公していた[1]。
時代 | 室町時代後期 |
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生誕 | 長享2年(1488年) |
死没 | 永禄3年9月12日(1560年10月1日) |
改名 | 雅益(前名) |
戒名 | 乗品 |
官位 | 正二位神祇伯 |
主君 | 後柏原天皇→後奈良天皇→正親町天皇 |
氏族 | 白川家 |
父母 |
実父:白川資氏王、実母:祐心 養父:白川忠富王 |
妻 | 白川忠富王女 |
子 |
実子:白川兼親、中山親綱室 養嗣子:白川雅朝王 |
生涯
編集白川資氏王の子として誕生。初名は雅益(まさます)。大叔父に当たる忠富王の娘を嫁として忠富王の猶子となる。文亀元年7月、従五位上に昇叙したときには雅業と改名していた。永正7年1月、忠富王の所労のため伯職を譲られ、雅業王と称す。同15年、従三位となり公卿入りを果たす。大永3年には二度の軽服[2]、翌年には一度の軽服[3]、翌5年にはさらに一度の軽服があった[4]。永禄3年(1560年)、長男の白川兼親王やその子・白川富親王は存命していたものの、彼らを後継者とすることなく薨去した[5]。享年73歳。法名は乗品。
官歴
編集- 明応9年12月26日(1501年1月15日)、従五位下、侍従
- 文亀元年7月19日(1501年9月1日)、従五位上
- 文亀元年12月3日(1502年1月11日)、左近衛少将
- 永正3年11月9日(1506年11月23日)、正五位下
- 永正6年1月9日(1509年1月29日)、従四位下
- 永正7年1月25日(1510年3月5日)、神祇伯、左近衛中将へ転任
- 永正9年1月7日(1512年1月25日)、従四位上
- 永正12年1月24日(1515年2月7日)、正四位下
- 永正15年6月23日(1518年7月30日)、従三位、左近衛中将辞任
- 大永2年1月9日(1522年2月5日)、正三位
- 大永2年3月29日(1522年4月25日)、信濃権守を兼任[6]
- 享禄2年2月17日(1529年3月26日)、従二位
- 天文5年2月21日(1536年3月13日)、正二位
- 天文8年3月23日(1539年4月11日)、信濃権守を再び兼任[7]
系譜
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 『高知県人名事典』新版、p.396。「(前略)父雅業王は一条家に家礼衆として奉公しており、(後略)」とある。
- ^ 『公卿補任』後柏原天皇大永三年条。「(前略)三月日輕服。月日除服。八月三日輕服。月日除服。」とある。いずれも母・祐心の親族による軽服である可能性がある。大永3年3月は蓮芸(蓮如八男、同年閏3月28日没)、同年8月3日は実賢(蓮如九男、同日没)か。この両者は祐心の異母弟である。
- ^ 『公卿補任』後柏原天皇大永四年条。「(前略)八月十五日輕服。九月日除服出仕。」とある。
- ^ 『公卿補任』後柏原天皇大永五年条。「二月二日輕服(叔父光兼法印卒)。」とある。光兼は雅業王の生母・祐心の弟で本願寺9世の実如のことである。
- ^ 赤坂恒明「永禄六年の『補略』について : 戦国期の所謂「公家大名(在国公家領主)」に関する記載を中心に」『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』第11巻、埼玉学園大学、2011年12月、326(43)-311(58)、ISSN 1347-0515、CRID 1050282812975072256。
- ^ 『公卿補任』後奈良天皇大永五年条迄。同六年以降見えず。
- ^ 『公卿補任』後奈良天皇天文十二年条迄。同十三年以降見えず。
- ^ 『系図纂要』別冊一(p.62-63)、公卿類別譜「白川」では忠富王の娘となっているが、纂要には女子三名が雅業王と「母同」とあることから、資氏王の娘であろう。女子の一人の嫁ぎ先・興行寺康恵(康慧)は蓮尭の諱である。「本願寺系図」(龍谷大学図書館貴重資料画像データベース)の記述から、この嫁いだ女子を資氏王の娘とし、残り二人の娘もこれに従った。
- ^ 公卿類別譜「白川家」。(2020年6月7日閲覧)
- ^ 『高知県人名事典』新版、p.396。「白河兼親」の字で、「白河雅業の嫡男。」とある。
- ^ 「醍醐寺過去帳」(『醍醐寺文書』第118函5号)に慈恵院花屋盛春大姉とある。元和4年7月17日(1618年9月5日)死去。